2011年12月31日土曜日

自己の境界



どこまでを自分と思っているのだろう?


我感じる、故に我あり。

独り言


今日は、「自己の境界」と題して少し書いておきましょう。

盲人と杖
 
ベイトソンのエッセーの中に盲人と杖を題材に書かれた有名なエッセーが存在します。[1]
ここでのテーマは、「杖をもった盲人が、自己と認識しているその境界はどこまでなのか?」です。

つまり、物理的には盲人と杖はまったく別々のモノですが、認識主体としての盲人が感じている自己意識の境界、つまり「どこまでを自分と思っている?」の答えとして、例えば、杖の先端まで届いていたりしています。

 これは、車を運転している時、「自己意識はどこまで届いているのか?」という問と同じようにも思ってきます。

 高速道路を走っている自己意識は車の隅々にまで広がっていて、轍に乗り上げた時、この轍をまるで、自分の足の裏やお尻で自分の肌で感じているということが起こります。

 つまり、この人車一体の状態で「どこまでを自分と思っているの?」と質問されると、おそらく、「車の外側」といった答えが返ってくるでしょう。  

 観察者から見ると、自分と車というように物理的にはまったく別個のモノが、論理的には繋がって感じられるというようなことが起こるということになります。

これから分かるのは、論理的な自己意識というのは、固定されたものではなく、その対象と範囲を含めて、刻々と変化しているのだと思います。 

  もっとも、余談ですが、ベイトソンは、一人ひとりの「ちいさなマインド」が結ばれ合って「大きなマインド」を形成するという考えて方について述べていますし、「ちいさなマインド」について言えば、「小さなマインド」である自己意識を宇宙全体に拡大して自己同一化しようというのが仏教の企ての一つということなのでしょう。

自己意識とオートポイエーシス
 
それで、上で書いたような刻々と変化する自己意識のようなことを表現したらどうなるかと考える人が居るのは世の常です。

 普通に考えると、ウィナーのサイバネティクスやベルタランフィの一般システム論[2]ではどうしても論理と物理の二元論を超えるような表記が難しく、ブリコジンの動的非平衡システムで複雑系に抜けるのもちょっと違うな、ということになってしまいます。

  それで、あれこれと考えていくと、家族療法にも持ち込まれているマトゥラーナ、ヴァレラのオートポイエーシスのシステム論で考えるようになって初めて物理的な身体と論理的な意識との相互作用を(数式とかを使わずに自由に)記述することが可能になるということになります。

http://www.enolagaia.com/Bib.html

 逆の言い方をすると、環境と自己とを区別して都度立ち上がってくる(生きている限り自己の連続性はある)オートポイエーシスは生命を記述するためのシステム論なので、心身二元論を超える生命を記述することにこそ向いているというわけです。

エリクソンの言語パターンとオートポイエーシス

 それで、前置きが長くなったわけですが、以下のリンクにあるように

http://www.emeraldinsight.com/journals.htm?articleid=875736&show=abstract

 催眠療法家のミルトン・エリクソンの質問をオートポイエーシスの視点から考察した論文が見つかります。

ここでの要点は、心理療法家がクライアントに質問をして、認識主体の向けている焦点を変え、(フッサール的に)意識の方向性を変え・・・とやっていくと、オートポイエーシス的に、自己意識を創りだす構成素が変わってくるということになります。

そして、自分で自分をどう感じているのか?という、自己意識(境界とか、質感・・・)というのは違ったものになってくるというわけです。

 この場合、オートポイエーシスで説明される、問題を抱えている時の自己意識をどう知覚させ、(クライアントのメタ認知を促すことで)うまく対処している時の自己意識にどう変化させているのか?という視点で読むと、とても面白くなってきます。


それで、こちらは家族療法のサティアの質問なのですが、以下の4つの質問をされると自己意識とか感覚とか範囲に気づけるのだろうなと思ってきます。


http://ori-japan.blogspot.com/2011/09/blog-post_04.html    

 それで、まったくの余談ですが、うまく会社を経営している経営者の意識の範囲がどこまで届いているのか?を聞いてみると面白いのではないかと思ってきます。

 もちろん、優秀なサッカー選手の意識の範囲がグラウンドのどの範囲に届いているのか?というのと同じようなことなのかもしれませんが・・・・それで、風姿花伝に書いてあった「離見の見」や五輪書に書いてあった「目付の話」で、当事者とメタの視点が統合されたような自己の意識を持つことか・・・となってくるように思ってきます。


 もっとも、オートポイエーシスが出てきて 何百年も前の存在した 達人の到達した境地をシステム論として説明することができるようになったのかなぁ・・・というわけです。

文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年12月30日金曜日

帰ってきた「言語と精神」



「ことば」と「こころ」ってどう関係しているのだろうねぇ。

独り言


今日は、帰ってきた「言語と精神」と題して少し書いておきましょう。

1968年の講演のリバイズ版
 
最近、ウィトゲンシュタインの「論考」[1]を読んだところなのですが、子供ような好奇心から「言語っていったい何なんだろう?」ということがあります。

それで、一体言語は何なのか? とか、言語が認知やマインドに及ぼす影響は?といった質問を考えることになります。

こういった時代は非常に良くしたもので Youtubeの映像を検索すると、こういった疑問に答える理論なりモデルを提供してくれている人達が居るというわけです。

それで、個人的に気に入っているのが言語学者にして社会運動家でもあるノーム・チョムスキーが1968年にカリフォルニア大学バークレー校で公演した「Language and the Mind[2]をリバイズし、再び同校で行った「Language and the Mind Revisited」というタイトルの映像が提供されています。 



文献
  
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年12月29日木曜日

Do more / Do different



対象をシステムと考え、それがどのような良循環によって維持されているかを考えると色々なことが上手くいくように思えますねぇ。

独り言


今日は、「Do more /Do different」と題して少し書いておきましょう。

変化を起こすための介入 Do More -
 
カリフォルニア州パロアルトにある短期療法の研究機関であるMRI(Mental Research Institute)の介入モデルですがDo more / Do different ということがあり、短期療法の中核になる考え方です。

それで、「よくわかる!短期療法ガイドブック」[1]からの引用で以下のリンクの p.7 に説明されていますが、


現在起こっている良循環を拡張していく(Do more)か、悪循環を断ち切る(Do different)の何れかの介入方法が紹介されています。

もちろん、個人的には心理学大学院を出たわけではないため心理療法は行なっていないのですが、このモデルは仕事や日常生活の場面でも非常に活用できるモデルだと考えています。

それで、個人的にはやはり Do more から行くのが基本だと考えています。

例えば、クライアントさんに新しい方法論の導入を提案するような時のことを考えてみましょう。

普通は、新しい方法論を導入する時はやり方を根本的に変えることにもつながるため社内の抵抗を受けることが普通で、これが外国から来た例えば、ABCなどといったアルファベットのついた方法論なら尚更だというわけです。

 おそらくもっと深い部分から考えると今やっていることの完全否定、つまり「ダメだから変えなければなりません」といったメタ・メッセージを送ることにもなってしまうからでしょう。

それで、まずは Do more のアプローチです。 一見、悪循環に陥っていると思われるような組織にも一つくらい良いところがあるものです。

それで、まずはこの良いところから見つけることになります。 そして、やはりこの良いところを認識してもらうというところから始めます。


もちろん、ここで普段使っている認識の枠組みをリフレーミングしないと良いところが見えてこないかもしれません。でも、逆に考えてみましょう、普段使っている認識の枠組みまで変えてみてみると必ず良いところが見つかると・・・

そしてクライアントさんに同意を求めることになります。「ここは良いですねぇ。」それで、クライアントさんにこれを認識してもらって、この良循環を強化するように何かを継続して実行してもらうということになります。もちろん優秀なコンサルタントなら、前に説明した欧米から来たABC云々という方法を目立たないようにこっそり使っているでしょう。

それで、個人的には Do more を繰り返して行くことが重要ではないかなぁと思っています。

もちろん、今やっていることがダメだから変えましょう Do different のアプローチもあるのでしょうが、個人的にはこれをやって成功した会社は背水の陣で倒産寸前まで追い込まれているような会社ではないかと考えています。

やはり人は今やっていることの全否定みたいなところはやりたくないのでしょうからねぇ。

文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年12月28日水曜日

ロジカル・アティチュードと人類学者の観察



子供の頃は何も考えずに 一心不乱に 色々なことを観察していました。

独り言


今日は、「ロジカル・アティチュードと人類学者の観察」と題して少し書いておきましょう。

コンサルタントにはロジカル・アティチュードが必要か!?
 
ジェラルド・ワインバークという人の著作に「コンサルタントの秘密-技術アドバイスの人間学-共立出版」というのがあります。[1]本書の最初のほうに出てくる、推薦文 ―英語で言う「Forward」― を家族療法家のヴァージニア・サティアが書いていて、サティアのワークショップでも学んだ著者の家族療法に対する知見が至るところに生かされていて個人的には非常に好みの本です。

それで、本書はビジネス、特にIT系のコンサルタントについて書かれていますが、依頼主とのやり取りとの中で著者がどのような態度を取れば良いと思うに至ったのかが書かれていて非常に興味深いところがあります。


「だが私は、たいていのとき、その非合理に耐えられる範囲において、依頼主との直接のやりとりを楽しみにしてきた。私がこの業界にとどまるためには、選択の余地は次の二つしかないようにおもわれた。

1、        合理的であり続け、発狂する。
2、        非合理になって、気が狂った人と呼ばれる。 

 長年にわたって私は、この惨めな両極の間を行きつ戻りつしていた。だがついに私は第三の道があることに思い立った。それは、 

3,            非合理に対して合理的になること。 

 だった、一見非合理な行動に潜む合理性に関しての、私の発見を述べたものである。 



以下のリンクでも書いていますが、コンサルタントですら、自分のメンタル・モデルと大きく外れることが起こると情動、例えば、激しい怒りや失望などが起こってくると思考や行動にかかる認知バイアス[2]が増幅されるため、こうならないための態度がロジカル・アティチュードであると言っているようにも思えてきます。


それで、どのような非合理な状況が発生しても、達観した視座を取って合理的に考え、合理的に振る舞う重要性が強調されているということが興味深い点です。つまり、自分の周りがどんなに修羅場になっていても、達観して飄々(ひょうひょう)としているというのが著者のスタンスであり本書全般を通してこのスタンスが貫かれています。

もちろん、このように振る舞うには、一般意味論で言う「地図はそれが示す領土にあらず」ではないのですが、自分をメタ認知した視点から、いつも事実と解釈/意味の区別は付けておく必要があるのかもしれませんが、このことが、著者がサティアのワークショップで学んだことではないかとも思えてきます。
(参考)
http://ori-japan.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html
http://ori-japan.blogspot.com/2011/09/blog-post_30.html

ロジカル・シンキングは万能か?
 
それで、ロジカル・アティチュードの次は、ロジカル・シンキングについて少し考えてみることにしましょう。個人的にはロジカル・シンキングを行うための条件としてロジカル・アティチュードが存在すると考えています。

コンサルタントに限らず、ビジネスの場面では基本的にロジカル・シンキングを活用することが多いと思います。

ここでは、ロジカル・シンキングとは何らかの情報、特に言葉や文字による二次情報を入手した後、それを論理的なお作法に基づいて情報/記号の操作を行うこと、と少しスコープを狭く設定しています。

もちろん、ロジカル・シンキングには多くの利点があります、人並みの能力をもったビジネス・パーソンが、基本的には形式知化された二次情報を元に、それをインプットとして、お作法通りに情報処理を行うと、大体誰がやっても同じようなアウトプット、例えば、アイディアや行動計画などが出てくるという特徴があります。

しかし、最近面白いことにロジカル・シンキングの限界について指摘されているような本も多く登場してきています。同じインプットを使ってロジカル・シンキングで考えると大体、誰がやっても同じようなアウトプットが出てくるとなります。

それで、マイケル・ポータが言うように企業は他社と差別化を行う必要があるとすると、卓上で情報を処理してロジカル・シンキングを行なっているだけでは差別化要因を発見することは出来ないということになります。

 個人的にも経験がありますが、要件をまとめる時に既に形式知化された二次情報を中心に構成されたドキュメントを読んでこれからアウトプットを作成するだけと、だいたい誰がやっても似たようなアウトプットが出てきます。 
 
これから分かるのは、お作法通りにロジカル・シンキングを使える必要はありますが、これだけ出来ても、誰がやっても同じような結果が導けることが担保されているだけで、あっと驚くような新しいアイディアを伴った解決策を導くには十分ではないということを意味しています。

情報収集、処理の2つ方向性
 
それで、ロジカル・シンキングがいけないといっているわけではないのですが、ロジカル・シンキングを取りながらもプラスα (ジョブズの言うOne More Thing)の発想が必要なように思えてきます。

それで、
l       一つは情報のインプットに着目して、暗黙知や質感を伴う一次情報を入手する方法を考えること。情報の入口を広げる方法として、簡単に言うと現場で起きていること、起こりそうなことにとにかく観察すること。
l       もう一つは、途中の情報処理にロジカル・シンキング ― 帰納法「広げる」、演繹法「絞る」 ― に加えて「ひねり」を入れること、具体的には、アブダクション、物語、メタファーなどの思考を加えること。

前者は、とにかく現場に赴いて、お客さんや他の人と話すなど、文章やデータに載ってこないコンテクストを含むより深い質的情報を取得して、その情報を元にインプットを行えるように人類学者が異文化や風習を観察するようなエスノグラフィー[3]の手法を用いて観察してみることになります。
 
 もちろん、ここで「U理論」ではないですが、観察者自身の持っている既存のメンタル・モデルと現実の差異からやってくる、感情や情動自分自身との内部対話の声を止め、視座を変えつつ、観察者の思い込みや偏見で重要な情報をブロックしないように観察を行うということになるでしょう。


 個人的には、昔、仕事でお話ししたことのある多くの人が優秀と認める外国人のコンテクストが、現場を1週間ほどうろうろさせてもらってからその仕事を正式に受けるか受けないかを決めると言っていったのが印象に残っています。

 なんでも現場をうろうろしてそこに居る人と少し話したり、色々な工程を見終わったりした時には直感的な解決の方向性は決まっているのだとか・・・

 これに関して、現場に趣き、特定の目的があるわけではないけれども、現場の隅々を見まわってみるという経営手法は、MBWA (Management by Wondering Around)という概念で語られていることだと思います。[4]
 
 組織が成長するにつれて、本来、目的をもたず現場をうろうろする Wondering Around が目的をもった Walking Around に変わります。

そして、だんだんとそれ自体が目的化され、大名行列や裸の王様なっていき、最期は現場にも来ないようになって、ある日氣づくと組織が衰退し始めているというようなよくある話になってくるように思います。 

それで、経営者であるかどうかは問わず、誰でもロジカル・アティチュードを取って、現場に身を置いて、心を落ち着け、内部対話を止めて、自分自身の知覚で、何が起こっているのか? どのように起こっているのか?を人類学者になったつもりで、ただひたすら観察することから始めることはとても重要なことなのだなと再認識する今日この頃だったわけです。
 
さて、ここまでを簡単にまとめると、今日は、ロジカル・アティチュードとインプットされる情報について、観察の重要性ということについて少し書きました。

創造性を発揮するための別の切り口として、情報を入力した後に思考を「ひねる」ということも考えられるのですが、これはCS.パースの言う「アブダクション」あるいはメタファーや物語を使うことになりますが、今日は書ききれなかったのでまた別の機会に書くことにしたいと思います。

文献
[4]https://docs.google.com/viewer?url=http://www.adb.org/documents/information/knowledge-solutions/managing-by-walking-around.pdf 
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年12月27日火曜日

サスティナブル・リーダーシップ



新しい時代には、新しいリーダーシップを。

独り言


今日は、「サスティナブル・リーダーシップ」と題して少し書いておきましょう。

大変な1年
 
堺屋太一氏の著書では無いのですが、2011年は、色々な意味で「大変な時代」の到来を告げるような1年だったように思えます。

l       3月11日の東日本大震災による、地震、津波、そして原発の事故
l       タイの洪水
l       ジャスミン革命による独裁者の排除
l       EUから始まった金融システムの崩壊危機
l       アメリカの覇権の縮小
l       日本の政治の迷走
l       学術ピラミッドの崩壊 
l       マス・メディアの終焉
l       などなど

もちろん、ここで政治が悪い、経済が悪い、メディアが悪い、会社が悪い、自然が悪い・・・というように誰かのせいにしていても仕方がないように思えてくるわけで、少し脳天気なモードでマクロに考えるとある意味ピラミッドの階層が崩れて新しい秩序が生まれる前の混乱とも考えることが出来るのでしょう。

それで、こういった時期には一人ひとりがリーダーシップを発揮して、それを縦ではなくて横に広げていくことが必要な時代なのだろうなと考えているわけですが、こういった時期だからこそそもそも論に戻って色々なことを見直すことが重要ではないのだろうかとも思っているわけです。

で、個人的な内的なアクティビティ(もちろん外的な行動もありますよ)として、実際には歴史を振り返ったり、ネットで色々文献を読んだりしているわけですが、ある意味色々問題意識を持つと結構良い文献が見つかるのは面白いところなのでしょう。

それで、ちょっと読んでいたのが以下の論文です、


内容を見ていただくと、MITのスローンで組織や個人に変革をもたらす方法論である「Theory U」の開発者であるオットー・シャーマ博士の元で書かれた修論ですが、単純に利益の追求というだけではなく、様々な矛盾を綜合しながら、サスティナブルな社会を実現するために、どのようにリーダーシップを発揮すると良いのか?について書かれているところは非常に参考になるように思ってきます。

それで、この論文では最初に認識主体である自分がどのように世界を捉えると良いのか?についてケン・ウィルバーの四象限の考え方が援用されています、

Interior Individual
I
Self and Consciousness

Exterior Individual
It
Brain and Organism
Interior Collective
We
Culture and World Wide View
Exterior Collective
Its
Social System and Environment


このフレームワークは、構成主義的に、1)自分の内面 2) 自分の外面  3) 集団の内面 4) 集団の外面 のぞれぞれのコンテンツと関係性を考えるという意味では非常に面白い考え方のように思ってきます。

もっとも、このあたりは日本だと鈴木則夫氏の著作「インテグラル・シンキング」[1]に仕事や日常生活の場面でこのフレームワークをどのように適応すれば良いのかが書かれていたのでこれを参考にしていただいても良いでしょう。

それで、元の論文に戻ると、このフレームワークを更に発展させた「Theory U」のフレームワークそれぞれの視座をメタに綜合し、矛盾を解決するようなプロセスが説明されていることが理解できます。

 その意味ではこの論文は「Theory U」の作り方という視点から見ると、そのステップが明示されているため個人的には非常に興味深いところです。

トリプル・ループ・ラーニングをどう実践するか?
 
それで、今まで自分が正しいと思っている枠組みが壊れる時代にあるとすると、新しい枠組みを見つけるなり、構築するということを行う必要があるとも思ってくるわけですが、これに関係する学習のレベルが以前書いたトリプル・ループ・ラーニングということになります。


もちろん、ここでのテーマの一つは、それまで正しいと考えていた枠組み自体が大きく揺らいでいたり、壊れていたりする中でどのように(その場しのぎではない)サスティナブルなリーダーシップを発揮するかということになります。

この前提で読むと非常に興味深いのが以下の論文なのですが、


ここでもMITのオットー・シャーマ氏の提唱する「Theory U」を使って、実際にどのようなプロセスでトリプル・ループ・ラーニングを行えば良いのか?また、そこでどのようにリーダーシップを発揮すれば良いのか?について書かれているところが面白い点です。

もちろん、トリプル・ループ・ラーニングが、学習主体の自己をまったく書き換えてしまうような、メタモルフォーゼを伴うような学習となるため、そう簡単ではないのでしょうが、これはこれでありかなとも思っているわけです。

何れにしても、大きな変化が訪れようとしている時代ですから、まずはこういった方法論があると知っておくだけでも実は有効なのではないか?と思っている年の暮れだったというわけです。

もちろん、来年に限らず、こういった方法論を実践する場を色々なところに求めていこうとも思っています。


文献
 
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com



2011年12月26日月曜日

認識の抽象度を上げて一般解を探る



課題を解決するために、物理空間で具体的に行動として出来ることからはじめて、次に抽象度を上げた一般的な概念で考えて、また具体的な行動に落としていくような、抽象度の上げ下げは非常に大切ですねぇ。

独り言


今日は、「認識の抽象度を上げて一般解を探る」と題して少し書いておきましょう。

認識の抽象度、気にしてますか?
 
少し前に「たかじんのそこまで言って委員会」だったと思いますが、関西のお笑いタレント浅越ゴエが面白いネタをやっていました。

労働が危険だということで、猿・犬・キジが桃太郎を相手に裁判を起こしました。その中でキジだけが、なんで俺だけ「鳥」ではなくて「キジ」なのか?できれば「鳥」と読んで欲しい。といった一見バカバカしいネタを披露していたというわけです。

個人的にはこのネタは以下で書いた認知言語学のカテゴリー化とプロトタイプの話であるために非常に面白く聞いていたというわけです。


ここで、面白いのは、何か動物を見た時に、「キジ」だけ、「鳥」カテゴリーのさらに抽象度が一段低い「キジ」と認識されているところです。認知言語学的には、認識の基本レベルカテゴリーが「キジ」になっているということになります。

もし、これと同じ抽象度で「猿」や「犬」を見たとすると、本当は、「ニホンザル」あるいは「しば犬」のような抽象度で物事を捉えていなければいけない、つまり認識の抽象度がちぐはぐになっている、というわけです。

それで今日の話題もこの認識の抽象度に関連するわけですが、今日の認識の抽象度は、実際に物理空間で起こっている現象と、それを説明する概念について、それぞれ抽象度を分けて考えることの重要性について書いておきたいと思います。

TRIZ、認識の抽象度を上げて一般解について考える
 
仕事の合間に以下のエッセーを読んでいたら非常に重要なことが非常にシンプルに書かれています。


ここでは、認識主体のマインドのモデルが「ホロン革命」[2]などの著者であるアーサー・ケストラーのホロンによって構築されていますが、これが非常に面白いときています。

これについて少し説明しておくと、人の意識を考えた場合、抽象度の低い意識と抽象度の高い意識が一種入れ子のような階層になっており、鏡に写した鏡のように、一種抽象度の低いほうにも、抽象度の高いほうにも際限なく続いているというモデルになっているわけです。

それで、この任意の中間の状態のことをホロン、日本語で言うと亜全体という用語になるわけですが、この亜全体を起点に、抽象度を上げて、入れ子の外に出ていくこと、あるいは逆に抽象度を下げて入れ子の中に入っていくという意識の上げ下げが課題を解決する上で非常に重要になってくるというわけです。

このエッセーでは具体的な問題解決の方法論としては認識主体のマインドのモデルを考慮しながらTRIZ[1]が使われています。

ここでも最も重要なポイントは、課題を解決するときにその課題について認識の抽象度を上げて考えることの重要性です。

それで抽象度を上げて考えることの利点には次のようなことがあります。

1.      ひとつは、特定の課題を一般的にある課題とすることが出来るため、過去に見つけられた一般的な解決方法を適用できる可能性が高まること。
2.      もうひとつは、良い意味で抽象度を上げながら、思考していくことで、認識主体の持っている普段は意識に上がっていない「思考の枠組み」、あるいはその制限に気づき、この枠組を乗り越える画期的な解決策が見つかる可能性が高まる、

となります。もちろん、実際の施策を実行するためは最終的に抽象度を下げて物理空間で実施可能なアクションに落としこむ必要があります。



認識の抽象度を上げるために対立を利用する
 
 また、以下のリンクでも書いたのですが、


TRIZで抽象度を上げるという思考に加えて、現在、書かれている対立を TOC(Theory of Constraints)の雲を使って解決するような思考について書かれています。これはもっと言うと、禅問答のように二項対立を利用して、システムの外に視点を移し、システムの外で考えるということになると思います。


 もっともこういった論文はあくまでも製造業など何かモノやサービスをつくるインダストリーで新しいイノベーションを起こすために創造的解決策を出す手法と言っても良いかもしれませんが、抽象度を上げてもう少し一般的に考えると、殆どの問題は、パラドクス、その下位概念のジレンマ、ダブル・バインドを伴うパターンになりますから、大体同じようなメタ・パターンで解決できるということになると思います。

それで、以下のエッセーを読むと、思考の抽象度を上げて、現在持っている思考の枠組みを超えるために、メタファーが使えるとも思ってくるわけですが、


現在の対立抱えている課題としての対立を認識した後に、メタファーを活用して、制限となっている枠組みの外に出て、ワクワクするような新しい製品を考えるプロセスが示されていることを考えると結構面白いなと思っているところです。 

文献
 
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2011年12月25日日曜日

プロセスモデリング



伝統芸能じゃないけれど まずは 箸の上げ下ろし から真似をするのは結構重要かも。

独り言


今日は、「プロセスモデリング」と題して少し書いておきましょう。

卓越したナレッジをどのように取り出すか?
 
その方法の一つとして、そのコンテクストで卓越性を発揮している人のやっていることをプロセスにして取り出して、そっくりそのまま真似るということがあります。

つまり、ベストプラクティスをプロセスにして真似るということです。

では、このベストプラクティスのプロセスをどのようにして取り出すのか?について非常に強力な威力を発揮するのが野中先生と竹内先生の共著「知識創造企業」[1]の中で取り上げられていた SECI モデルです。




 SECIは個人でもグループでも活用できるのですが、例えば、キーボードキッズがこのモデルを活用して、既存の曲が弾けるだけでなく、新しい創造するプロセスを考えてみましょう。

ここでの前提は、このキーボードキッズはある程度スキルがあるということを前提としている、つまり普通の音楽教育の基本はある程度身につけているとしています。

l       共同化

まず、共同化、これはバンドの中で誰か他の人の演奏を経験するでも良いですし、映像などを聞いて、そのフレーズや演奏を無意識に真似して演奏し始めることになります。Jazzなどではいわゆる「耳コピー」と言われているような段階です。恐らく伝統芸能などでは師匠の一挙一投足をしのごの言わずに真似しなさいと言われている段階です。SECIモデルでは暗黙知を暗黙知として出来るようになるという段階です。

l       表出化

次が、表出化、これは自分が「耳コピー」して演奏できるようになった曲を楽譜に書き落としている段階です。音楽については、以下でも書いたように基本的には 1)メロディー、2)リズム、3) ハーモニー あるいは強弱や、それぞれの関係性の視点から、暗黙知を形式知に変換するプロセスです。 


それで、このプロセスでの注意ですが、共同化で得た質感の情報というのはほとんど落ちてしまうわけですが、逆に情報の抽象度は上がっていき、何らかの記号操作はやりやすくなっていきます。

l       連結化

次に連結化です。ここでは、コージブスキーの言う「地図はそれが差す領土にあらず」ではないですが「楽譜はそれが差す音楽にあらず」となるのですが、形式知化された楽譜をつなぎ合わせたり、書きなおしたりすることでその楽譜を元に演奏される音楽は容易にアレンジすることが出来るということになるわけです。


それで、連結化は、他の形式知をくっつけて新しい知識を創造するプロセスです


 音楽の場合、他のミュージシャンから得た形式知を使ってメロディーを変形させたり、コードをアレンジしたり、リズムを変えたりとなるでしょう。また、ここにメタ・パターンとしてのボサノバだのブルースといった別のスタイルを持ち込むことも可能でしょう。

l       内面化

そして内面化です。これは連結化して出来た楽譜を実際に演奏して質感を伴った音楽そのものに戻すプロセスです。このプロセスで形式知が「場」の中で暗黙知に戻されています。

それで、SECIは基本的に暗黙知→暗黙知モデリングというように無意識に出来るようになるプロセスと、もう一つは暗黙知→形式知→暗黙知のように一度意識に上げて練習するプロセスの2重のプロセスを回すような形式になっています。

それで、基本的にはSECIモデルを何回もぐるぐる回して知識を習得することになるわけですが、個人的には、伝統芸能から経営知識、はたまた優秀なコンサルタントから優秀なセラピストのナレッジをこのモデルを回すことで身につけることが容易になるのではないかと考えているわけです。

そのようなわけで、個人的には、観阿弥・世阿弥親子の確立したメタ・モデリングの手法ここに極まれり、というような感じで捉えていることになるわけです。

それで、ネットを少し探すとトヨタのプリウスの開発を行った時の様子がSECIモデルでまとめられている論文が見つかることになります。


文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年12月24日土曜日

フレームについて



あえて空気を読まない、というのも大事ですねぇ。

独り言


今日は、「フレームについて」と題して少し書いておきましょう。

認識の枠組み(Frame)とは何か?
 
  人間は無意識に外的世界の出来事に対する、認識の枠組を構築して、その出来事を認識しています。 それで、場合によってはその認識対して、意識的にせよ無意識にせよ何らか反応したり外的世界に言動を介して何かの働きかけを行なっています。 


http://www.csun.edu/~rk33883/Framing%20Theory%20Lecture%20Ubertopic.htm

  これは誰もが無意識にやっていることであり、ほとんどの人は何か問題が起こっても、どういう枠組みの下で問題が起こっているのか?を考える人はほとんど居ないと思います。

それもそのはず、一般的には、(身体感覚を伴った非二元論的な)視点を枠組みの外に出して、メタ認知することで、始めてこの枠組自体を問題にすることが出来るからです。  

 それで、このように人間が無意識にやっていることをAI(Artificial Intelligence)やコンピュータに実行させようと考えた途端に浮上してくるのがいわゆる「フレーム問題」です。[1][2]

 つまり、AIやコンピュータは、枠組みを自ら学習して構築することが苦手だということがあります。 つまり、ほとんどの場合、認識の枠組みが予め用意されることになります。 

それで、AIやコンピュータの場合、予め用意された枠組み自体がその状況にマッチしないと、ベイトソンの Leaning 0のように、コンテクストを無視した形式で、何か予めプログラムされたことだけをひたすら実行するという状態に陥ってしまうことになります。  

  逆に、人間の場合、最初に参照可能な枠組みとして経験の中から適当なフレームを引っ張ってきて、それを無意識に使ってコンテクストに適応する、あるいは場合によっては新しいコンテクストを学習するということになります。これについては以下のリンクの「学習のレベル」を参考にしてください。


それで、人間は、AIやコンピュータ上にプログラムとして人工的に実装とすると途端に頭を悩ませる「空気を読む」つまり、枠組みの下に状況を読む、コンテクストを読む、という作業をいとも簡単行なっている優れた学習マシンということが出来るでしょう。  

もっとも、これについての余談ですが、山本七平著「空気の研究」によるとこの空気が集団の思考や行動を支配し、第二次大戦の日本の軍部のように、独裁者が居るわけではないのですが空気が極端な行動に走らせることがあるため、これを破るために「水を差す」重要性が語られているところでもあります。[3]

人はものごとを認識するために参照枠(Frame of Reference)を使っている
 
  さて、人間の場合は基本的に自分の経験から身につけた物事の見方の枠組みである参照枠を使っています。

このことを、認知科学や心理学では、参照枠(Frame of reference)と呼んでいます。[4]

個人的には、コンテクストにあわせて最も適当なフレームを使って物事を認識する、あるいはそれが無い場合は新しいフレームを構築する能力が、そのコンテクストで卓越性を発揮できるか、あるいはできないかを分ける要因の一つだと考えています。

 逆に言うと、参照枠を持っていないし、構築も出来ないと、認識、理解、意味付け、評価自体が出来ないため、ある出来事を見ても、何が起こっているのか?わからないままになってしまうということになるでしょう。

 また、過去構築された参照枠にこだわってしまうと、いつも過去の経験に引きずられた認知バイアス[5]のかかった参照枠の枠組みで物事を知覚、認識してしまっているということになってしまいます。
 
 それで、細かい話をすると、認知心理学?言語学?文化的?形而上学的?のどのフレームを使ったら良いのか?という問題が頭に浮かびます。[6]

もっとも、「何が目的なのか?」という問を立てると。

その答えは、「認知バイアスをできるだけ低減したやり方で物事を見たい」、あるいはもっとこの考え方を進めて「現在、持っている認識の枠組みを変えることで一種のパラダイムシフトを起こしたい」ということになるのでしょう。

個人的にはそのやり方の一つはMRIのポール・ウォツラィックが提唱した家族療法の技法であるリフレーミング[7]を活用すれば良いのだろうなと思っているところです。

もっとも、枠組みを変えるには当然、その枠組の外に出る必要があり、MRIの研究でも明らかなように、これを行うためには禅問答のようなダブル・バインドが必要だということになってきます。



文献
[7] http://en.wikipedia.org/wiki/Reframing 

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