2011年10月31日月曜日

ダブル・バインドの言語パターン(その1)



未来に向けて行動を起こすことを考えた場合、それをどのように行えば良いのか? 現在持っている認識や思考から選択肢をつくって、どれかを選んだ後に行動に落としたほうが、よりスムーズに第一歩を踏み出せることが多い。

独り言


今日は、「ダブル・バインドの言語パターン(その1)」というタイトルで少し書いておきましょう。

ダブル・バインドの良いところ

「ダブル・バインド(二重拘束)」と言えば、グレゴリー・ベイトソンが統合失調症の原因として体系化した仮説であることは以下で書いたわけですが、


(追記、最近読んだ東北大学の若島先生の本[タイトルはなんだっけなぁ]には、家族療法、短期療法で、ダブル・バインドが統合失調症の原因という説は死んでいるというのが書いてあったので、ちょっと論文を探してみようと思ったところ。それでも、エリクソンの Therapeutic Double Bind のほうの技法は生きているということなので、こちらは O.K.そうですねぇ。) 


この仮説の発見にあたっては心理療法家のミルトン・エリクソンが大きな貢献を行なっています。[1]

 それで、個人的な理解は、ミルトン・エリクソンが実践した内容をベイトソンが理論化したということになるわけですが、

 エリクソンは、英語で「Therapeutic Double Bind」(治療的ダブル・バインド)と言われるように、クライアントが現在陥っている「ダブル・バインド」を解くためにあえて言語を使って別の「ダブル・バインド」をぶつける、つまり極端な言い方をすれば、「毒をもって毒を制す」というような手法を活用していたことが知られています。

ダブル・バインドの言語パターン

もちろん、最初にクライアントがどのようなダブル・バインドの状態にあるのか?現状を正確に把握し、そのダブル・バインドをどのように解くのかという方針を決めてまるで数学の問題でも解くように、一見曖昧に見える言語パターンを使って、非常に精緻に解いていくわけですが、

この時用いた約8種類のダブル・バインドの言語パターンが抽出されています。[2]

それでこの言語パターンはその他を含む以下の8つのパターンからなります。


1. Simple Bind
2. The Time Double Bind
3. The Conscious-Unconscious Double Bind
4. The Double-Dissociation Double Bind
5. The Reverse Set Double Bind
6. The Non Sequitur Double Bind
7. Illusion of
 Choice and All Possibilities 
8.
 その他 


まず、今日は「Simple Bind」について説明しておくことにします。

厳密に言うと、この言語パターンはダブル・バインドではなく単に、将来のある時点を想定してもらって「ABを選ぶとするとどちらですか?」というように基本的には Either orの2択や場合によっては3択の、ある意味、認識の中にだけしか存在しない「虚偽の選択肢」をを相手に示唆し、相手の自分で選択した感を演出するために活用されることになります。

 日本語で表現すると、「ご飯にしますか? それともお風呂にしますか?」のように相手に直接命令しない形式で行動を促すパターンと言って良いでしょう。 

 これは、別に心理療法だけではなく、例えば、上司が部下に行動を起こしてもらうために「この製品の提案を行うとすると、A社とB社とではどちらが売り込みやすいと思う?」というような質問をぶつけてみることができます。

 もちろん、ここで「A社です。」という答えが返ってきた時はA社のアカウントプランを具体化していけば良いわけですし、「A社もB社も両方、難しいです。」とか「A社もB社もどちらも興味が無いと思いますよ。」というような答えが返ってきた場合はもっと根本的な原因があって困っていることが考えられます。

 それで、将来に何か行動を起こそうとすると、現在、認識の中での決断が必要になるわけですが、「Simple Bind」は相手の自分で選択した感を演出しながら、具体的にどういう行動を起こしたら良いかに焦点を移し、その相手の決断を引き出す言語パターンと言っても良いでしょう。

文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年10月30日日曜日

ザ・ゴール(再読)



人はもともと善良である、ものごとはそもそもシンプルである。

エリアフ・ゴールドラット


今日は、「ザ・ゴール(再読)」というタイトルで少し書いておきましょう。

本の再読はよいものですねぇ

 少しだけ時間が出来た時に、昔読んだ著作を再読してみるのも、良いものです。

人間は誰でも日々進化しているのかもしれませんが、少し時間をおいて再読してみると、昔は気が付かなった深い意図に気づいたり、新しい視点から眺めることができたりと、同じ著作でもまったく印象が違ったものになってきます。

もっとも、ここで「成長」という言葉を使わずに「進化」としたのは、成長はどうしても規模の拡大、量の拡大を意味しているため、体重とウエストサイズばかりが大きくなってもねぇ、あるいは物欲ばっかり増えてもねぇ、ということに対するカウンター・プロポーザルにもなっているというわけです。

さて、最近、エリアフ・ゴールドラットの「ザ・ゴール」の日本語字幕版の試写会が開催されたのを良い機会にして、この本を再読してみたわけですが、やはり良い意味でも悪い意味でも新しい発見があるのは非常に面白いことだと思ったわけです。


「ザ・ゴール」もキャンベルのヒーローズ・ジャーニーの形式を取る

もともと、「ザ・ゴール」の著者、故エリアフ・ゴールドラット博士は、製造業のスケジューリングのソフトウェアを販売していたそうですが、このソフトウェアに組み込まれているロジックを使ってコンサルティングを行おうと考えた際に、イメージがつかみにくいので小説形式にして本書を出版したところベストセラーになったという経緯があると聞いています。

  さて、「ザ・ゴール」はご存知の方も多いと思いますが、主人公であるアレックス・ロゴが本社の副社長から閉鎖寸前の機械部品工場の立直しの大任を押し付けられ、もし立て直しに失敗した場合は、工場を閉鎖して従業員を全員解雇するという提案を突きつけられ絶体絶命のピンチに陥るころからこの物語が始まります。
 
まさに、ジョセフ・キャンベルの「ヒーローズ・ジャーニー」のパターンからすると、平穏な日常生活の中から、境界を超えて旅に出る決断を迫られるというような場面に遭遇することになります。

    なんの変哲もない日常生活から一転して天命を聞くことになる。
    葛藤の末にその天命に従うことを決める
    いままでの境界を超えて冒険に出発する

そして、

④メンター、師匠と出会う 

という出来事から次のステージへ、

アレックスの出張中、たまたま空港で出くわした大学時代の自分の恩師であり物理学を教えているジョナに助言を求めるというメンターとの出逢いに発展します。
 
 ジョナはアレックスに現実に起こっている現象を別の視点から見ることのできるフレームワークを渡し・・・そもそも企業のゴールとは何かということから考えてもらうことになります。

 それで、アレックスが勤務する工場のほうも相変わらず、ピンチなのですが、泣きっ面に蜂ともいうように、ここでアレックスの奥さんが夫に三行半を叩きつけるというような別の困難も起こってきます。

⑤困難に直面する

 それでも、アレックスはジョナの助言を真摯受け止め、自社の工場に実際の施策として落とし込んでいきます。

⑥新しい自己、新しい能力を開発する、支援者が現れる

 それで実際には現在の工場の業績を制約している物理的制約、方針制約、パラダイム制約に気がつき、これを変えていくということになるわけです。この小説の場合、制約が市場ではなく工場の中にあるという設定になっていますからとにかく、市場からの需要に答える形式で工場の中のルールや仕事のやり方を変えれば業績が向上していくことになります。

⑦最大の困難を迎えるがこの困難を克服して新しい自己、能力、報酬を手に入れる

事態は一転、工場閉鎖は免れ、その企業の工場の中でも最も業績の高い工場として再生されます。

    旅から帰還する

 そして、主人公であるアレックス・ロゴは、工場の立直しに成功、従業員の雇用と地域経済へのダメージも回避、妻や家族との関係も修復してヒーローズ・ジャーニーから帰還という展開になります。

「ザ・ゴール」をコーチングの視点から読む

それで、「ザ・ゴール」をどう読み解くのかということには様々な視点があるのでしょうが、次に、主人公のアレックス・ロゴに焦点を当てるのではなく、非常に卓越した才能をもったコーチのロールモデルとしてのエリアフ・ゴールドラット博士自身を投影させたと思われるジョナについて焦点を当ててみましょう。
 
実際にジョナの言動をモデリングしてみると実際にコーチングとして行っていることは以下のたった3つのことだけという非常に面白い事実に氣がつきます。


l       ゴールの設定

    最終的なゴールは何か?について考えてもらい、それを設定してもらったこと。

l       リフレーミング

 最初に行ったことは、家族療法で用いられているようなリフレーミングを使って、アレックスの思考フレームを転換させたこと。→外的世界で起こっている現象を見るメガネとそのモノサシを変えるように助言したこと。

つまり、物事を局所的なコストの視点からだけで見る思考フレームから全体の流れを考えたスループットの視点で見る思考フレームに架け替えるように助言し、スループットとは何かを説明したこと。実際のビジネス上の決断は、このスループットを基本にして、TP(スループット)OE(業務費用)I(インベントリー)の3つの指標で行うことができることを示したこと。
.      
l       相手に氣づかせる質問
  ゴールを達成するために、

 何を変えるのか?
 何に変えるのか?
 どうやって変えるのか?(未来の変化を起こすために今どういう種をまくか?)
 
を本人に氣が自主的に氣づくように質問したこと。そして、気づいたことをアレックスがまとめ自主的に施策として実行したこと。


もっとも、実際のコンサルティングの現場ということになると実はクライアントの思考フレームを変えてもらうというところが企業文化や企業のコンピテンシーと複雑に関連しているため一番難しかったりもするのですが、「ザ・ゴール」では主人公のアレックスが何事のなかったかのようにコスト・ワールドからスループット・ワールドへ思考フレームの変化を受け入れているというとろこが一番のポイントのように思えてきます。
 
 そして、自分自身で気づいたことを次々実行してアレックスは、工場を閉鎖の危機から救うということになるのですが・・・・・ここでゴールドラット博士が一番言いたかったのは、普段に当たり前だと考え、ある種自分自身やグループが囚われている思考フレーム、思い込み、常識、パラダイム、それ自体を疑い、必要に応じてそれ自体を変えることの重要性だったようにも思えてきます。

文献
N/A
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年10月29日土曜日

認識論の面白さ



知識とは「真理」かつ「信じていること」である。

プラトン


今日は、「認識論的な面白さ」というタイトルで少し書いておきましょう。

認識論とは何か?

Wikipedia の「認識論」の項目を参照すると古今東西の哲学者が取り組んだ、人は何をどのようなプロセスで認識しているのか? という疑問について書かれています。[1]

それでこの項目を参照すると、認識論とは、以下のような問に答えることだ、ということが書かれています。


人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。


もっとも、ここでは物事が正しいのか?というようにある意味主観的、社会的な判断基準が含まれているような書き方になっているわけですが、

一番目、二番目のように、ある出来事や事象を観察して主観的な視点から、何かを考えて、判断するような主観的経験自体を扱う場合と、

三番目の問のように、抽象度を一段引き上げて、その考えや判断自体を対象にして、そのプロセスがどのように行われているか?を観察することが含まれているという具合です。

ある出来事

何年か前に実家の近くの自治体のプロジェクトをやっていた関係で、休日に実家に戻った時のこと。

季節も5月でとても天気が良かったことから、折りたたみ式のシーカヤック、「エルズミア530」を持ちだして、近所の湖で練習しよう思ったわけです。[2] 
それで、折りたたんだ時の重さが30kg ほどあるのですが、これを車でこの湖に運んで練習しようと、その湖のほとりでカヤックを組み立てていた時にそのおじいさんはやってきたのでした、

「これは何ですか?」

「あぁ、カヤッ いや 船ですよ。」

「うそ、おっしゃい、こんなのが浮くわけないでしょう。」

「はぁ、(無視、無視)……

「大体、こんなのが浮いたら世の中ヒックリ変えるよ。」

「はぁ、(無視、無視、ひたすらカヤックを組み立てる).

おじいさん、組み立て作業をじっと見ている・・・・

沈黙おじいさんの独り言

「パイプを組んで、皮をかけて、空気を入れって. っと」「完成」

「それじゃ、」といって対岸に漕ぎ出す。

「こんなのが浮くわけないよ・・・」とブツブツ。

 カヤックは湖の中心へと滑り出しおじいさんの姿がどんどん小さくなる・・・・

知識→ 真理∩信念

さて、実は日常生活や仕事の場面で、このおじいさんのことを単純に笑えない場面というのは結構存在しています。

それは、プラトンが言うように私たちの知識となることは、真理∩信念、ということになるようだからです。


http://en.wikipedia.org/wiki/Epistemology

 とりあえず、ここでは真理とは事実から推論されて導かれた法則と考えましょう、例えば、上のおじいさんのように、事実としてはカヤックが水上に浮かんでいるということを観察することができても、信念として、こんなことがあるわけないと心から信じている場合、それは知識には成り得ない、

 逆の言い方をすると、事実から推論された真理に対して、心からそれを正しいとお腹で感じているような信念が重なりあってそれを初めて知識とすることができるというとても深いことに気づいてきます。

 もっとも、このおじいさんの場合は、自分にとって不思議なことを理解するために「自分にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。」と言う問を立てて一旦自分の置かれている系(システム)からメタに出てメタ認知する必要があったのでしょうが、これは起こらなかったということになるのでしょう。 
 
文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年10月28日金曜日

目的と手段の論理レベル



「目的」と「手段」という概念について考えると、人の認識や行動に与えるインパクトとしてはどっちが強いのだろうかなぁ? それで、相手と「目的」が対立した時は、それらを綜合する、より大きな「目的」を持つ必要があるのだろうなぁ。

独り言


今日は、「目的と手段の論理レベル」というタイトルで少し書いておきましょう。

目的と手段はどちらが強いか?

目的と手段とは何か? と少し哲学的な質問をすると、どちらも言語として名詞化された概念と言えるのですが、

グレゴリー・ベイトソンのマインドの理論から考えると、ある人の内的世界に概念として存在する「目的」と物理的な世界に行動を通して働きかけることのできる「手段」は異なる論理レベルに存在している概念と言えるでしょう。[1]

どちらが論理レベルの上位に存在するのか? 言い換えるとどちらが人の認識・行動に影響を及ぼすインパクトが大きいのか? を考えると、当然「目的」は心の中にあり、場合によっては他人と共有されるものですが、

ベイトソンのマインドの理論からすると「目的」のほうが論理レベルの上位あり、人の認識・行動に与えるインパクトが大きいということになります。

実際には、「手段」は「目的」に従属するというような関係になっていることが分かってくるわけで、比喩的に言うと「目的」と「手段」が戦うと「目的」のほうが強いということになってきます。

政府と中央銀行との関係

少し話は飛びますが、各国を取り巻く経済の話を中央銀行の視点から少し考えてみましょう。  

それで、まずは、中央銀行と政府の関係をこの論理レベルの視点から考えてみましょう。

 一般的には、欧州銀行のように、中央銀行の独立性を考えた場合には、中央銀行が持つのは「手段」の独立性であって、「目的」の独立性ではない・・・ということになっているようです。 つまり、中央銀行は政府の「目的」に従って、「手段」の独立性のみを持つということになります。[2]

 一方日本についてはどうでしょうか?

日本については1998年に日銀法が改正され、日本銀行に「目的」と「手段」の両方の独立性が認められている格好になっています。


つまり、「政府」と「日銀」がそれぞれ別法人格としての「目的」を持ってしまっており、中央銀行が政府の「目的」には必ずしも従う必要はないというような独立性を持ってしまった構図が生まれてしまっているというわけです。それで状況によっては「政府」と「日銀」の間に「目的」の対立が生まれる構造になっているということになっています。

デフレと円高は止まるのか?

上で説明したように、政府と日銀は完全に独立しており、現在、シカゴ派と言われている白川総裁は、自由放任主義的考え方を持つと言われており、一方ケインズ的な政府主導によりインフレターゲット論に基づく介入には否定的だと言われており、まさに政府と日銀は別々のアイデンティティを持つ存在として存在し、かつ、かつ信念・価値観レベルで対立している・・・と考えることができます。

 そのため、欧米の中央銀行が政府の目的にそって手段のみを選択しているにもかかわらず、日本は政府と日銀の緊張関係が続くなかで、デフレ脱却のためにより一層の金融緩和が望まれるにも関わらず、政府と日銀の不調和が続き株価と円高が進んでいるという状態になっています。 もっともここでそもそも論が存在し、金融緩和→デフレ脱却なのか?という効果の是非とそれが機能する前提条件を問う議論もあるようですが・・・

今後の議論の一つの柱

 今後の議論の柱として、日銀法を再び改正して、日銀には「手段」の独立のみ認めるべきだという案がみんなの党から提案されています・・・・


 もっとも、今のところ個人的にはある特定の党の意見を支持しているわけではないのですが、今日のテーマである、論理レベルの視点から考えて見ると、相手と「目的」そのものが異なる場合にどういったアプローチが必要になるのかというのは非常に興味深いテーマだなと思った次第です。

こういった、論理レベルを取り違えたり、論理レベルを混同したりしてしまうことは場合によってはシステムの混乱や破壊に繋がる恐れもあるわけですから、個人的には、ベイトソンの論理レベルやシステム思考の視点をひとつの切り口として「円高」や「デフレ」、それとここでは書かなかった「TPP」の推移を見守りたいと考えています。  

追記:以下のリンクで書いたのですが、法人、グループ、個人などが同じような属性、性質、機能を持ち、ある意味ライバルのような関係にあるのがコミュニュケーションにおける「Symmetric(対称)」の関係、また上下のような縦の関係は明示されていませんが、異なる、属性、性質、機能を持ち補完関係にあるのが「Complementary(補完)」の関係になります。


http://ori-japan.blogspot.com/2011/10/blog-post_16.html


これについて個人的にはあるコンピュータ会社が社内にインクジェット・プリンター部門とレーザー・ジェット部門とを対称関係である意味社外の競争より激しく競争させていたことを思い出しますが、この場合、経営者が両方の部門に対して協力な補完関係でスポンサーシップを行なっていたのではないかと考えています。


それで政府、日銀の関係も早く日銀法を改正して政府が日銀に補完する関係にしなさい、あるいはこれが出来るかどうかはわからないのですが、政府、日銀の対立を調整できる補完的な機関を両者の上に置きなさいということになるのでしょうが、これが中々難しいように思えてきます。
  
文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年10月27日木曜日

「なぜ?」と「どのようにして?」の質問の違い



「なぜ ?」という質問と「どのようにして ?」という質問は認識論的にはまったく異なる答えを引き出す。

独り言


今日は、「『なぜ? Why ?』と『どのようにして? How ?』の質問の違い」というタイトルで少し書いておきましょう。

短期・戦略療法ベースのコーチングでは、Why ? 聞く場合と、 How ? と聞く場合の区別をつけて尋ねていることをクライアントさんに認識してもらうのがひとつのポイントなのですが、今日はこれについて少し説明しておきましょう。

Why ? と How ?との違い

日経BPから出ている結構有名なシリーズモノの本に「~はなぜ動くのか?」があります。

  もう少し具体的に書いておくと例えば、「コンピュータはなぜ動くのか」というタイトルの本があるわけですが、この本の英語のタイトルを見ると、なぜか「Why Computers Work ?」ではなくて「How Computers Work ?」となっています。

 確かに、日本語のタイトルから英語を考えると「Why Computers Work ?」になるように思えてくるわけですが、一般意味論的に、観察者から見た表現がなぜ Why ではなくてHow になっているか? 日本語だとこの違いが混同されているところもあるのですが、その違いを考えると非常に面白いことに気がついてきます。

How ?の質問

それでは、個人的には「心と体は別もの」というようなデカルトの二元論に陥るのは嫌なので、身体も情動も持った善意の第三者の視点から自分の外側の世界を観察した格好で、なぜ、原題が「How Computers Work ?」なのかを考えることにします。

 この場合は、How という質問になっているので、基本的にこの視点から観察した、事実(あるいは理論、モデルなど)に基づいた動的なプロセスがどう連鎖してコンピュータが動いているのか?尋ねているということになるわけです。

 つまり、ここでの答えは、キーボードから入力された文字列の情報が○○に渡され、つぎに××という処理が行われ・・・・プロセスの連鎖としての事実がどのように行われているのか?という答えを期待されていることになります。

 これを、ベイトソンのマインドの理論から言うと月を指す指ではなく、月そのものを観ている状態、あるいは一般意味論の「地図はそれが示している土地そのものではない」と言った場合の「土地」で起こっている動的現象のプロセスを直接、観察しているという具合です。


 余談ですが、コーチングの場面で、コーチがクライアントに対して、「それをどうやって知覚しているのか?」「その気持はどんなプロセスで起きているのか?」のような、その対象が人の内側にある場合にも、それを外在化して「手でザラザラした感じがして、それから~します」というように基本的に事実のみ焦点を当ててもらうようにする必要があります。

Why ?の質問

 一方、「Why Computers Work ?」になると、事情が違ってきます。 

このように尋ねると、当事者に対して、基本的には直接見えない奥底にある設計思想を扱う時に聞く質問となってくるように思ってきます。

 これを、もっと極端に考えて、コンピュータを擬人化して、このコンピュータが比較的静的で固定化された、信念・価値観を持っているとすると、例えば、コンピュータが「僕は、計算するためにこの世に生まれてきたからだよ・・・」というような状況によっては少しトンチンカンな答えがあり得るという具合です。

 こっちは、ベイトソンのマインドの理論で言うと月ではなく、月を指す指を見ている状態、あるいは一般意味論で土地よりも静的な「地図」についての情報を尋ねている状態というわけです。

 それで、短期・戦略療法ベースのコーチングでは基本的に初心者のコーチは「なぜ」と聞くなというのがお約束になっているようですが、その理由は以下のリンクで書いたとおりです。


短期・戦略療法ベースのコーチングの約束事

ここで、短期・戦略療法ベースのコーチングの約束事を書いておきましょう。

上で述べた区別をつけることは、実は短期・戦略療法ベースのコーチングを行う場合に特に重要です。

具体的には、コーチとクライアントの間で、Howのプロセスを質問されているのか? もしくは Why の信念・価値観を質問されているのか?をつけて質問しているのか?あるいは質問されているのか? をお互いが理解していないとまったく効果が無いということになってしまうからです。

 例えば、コーチがクライアントに、自分の内面に、現象学的に自己再帰的に意識を向けて、自分のベストな心身状態について考えるように質問した場合。(外に注意を向けることもあります。)

  How の質問は、抽象度を下げて、知覚に焦点を当てどの知覚をどの順番で使って激怒しているのですか? という知覚のプロセスがどう関係してベストな心身状態を作り出しているのか?を引き出す質問ということになるわけです。

逆に、Why の質問を聞いた場合、つまり、なぜベストな心身状態が必要なのか?を聞く場合も考えられますが、答えとして心の奥にある本音ではない理屈を答えてしまうことも多いため注意が必要です。


つまり、短期・戦略療法の場合は、より直観を重視し、基本的に抽象度を下げて、五感の感覚、あるいは気持に焦点を当て、ここから直感的な暗黙知あるいは身体知を引き出すというゲシュタルト療法[1]やフォーカシング[2]と同じような技法を使うお約束になっているため、Whyの質問を使う場合には注意だというわけです。
 
文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

2011年10月26日水曜日

黄金比と神話のパターン(その2)



もちろん、すべての前言語的ならびに非言語的コミュニケーションはメタファーおよび/ないし草の三段論法によるというわたしの主張が、すべての言語的コミュニケーションが論理的ないし非隠喩的だという意味でないことはいうまでもない。メタファーがクレアトゥーラ(記述の対象となる現象自体、差異、対化、情報といったものによって支配され決定されるような説明世界)全体を貫くものである以上、すべての言語的コミュニケーションは必然的にメタファーを含む。

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」


今日は、「黄金比と神話のパターン(その2)」ということについて書いておきましょう。 

今日の記事は、自分で読んでいてもサンスクリットで書かれた経典みたいな感じになった感がありますが、よかったらどうぞ読んでみてください。ちなみにこのブログをどう読みやすくするのか?というのもひとつの課題ですが、フォントを「メイリオ」に変えてみました。

すべての認知はメタファーである

冒頭にベイトソンの引用を持ってきて、ちょっと混乱された方もいらっしゃるかもしれませんが、非常に簡単に要約しておくとベイトソンは意識と無意識をつなぐ言語、つまり無意識の表出がメタファーだと経験から洞察していたことを前提にして話を始めたいと思います。


それで、このあたりを学術的に説明しようとすると、メタファーをヒトの認知の中心と考えた、UCバークレーのジョージ・レイコフもしくは、オレゴン大学のマーク・ジョンソンの著作「Metaphors We live by (1980)」、「The Body in the Mind (1987) 」、「Women fire and dangerous things(1990)」、「Philosophy in the flesh (1999)」、あるいは神経学的にメタファーの影響を研究しているナラヤナン[1]あたりの話になってきます。

個人的には、このあたりの著作をひと通り読んでみたわけですが、デカルトの二元論を超える、「身体化された心」を取り扱うエナクティブな学派の認知科学にすっかり魅せられてしまっていて、久しぶりに何かにハマったなという感じがしているわけです。[2]

 もっとも、このあたりの話も、おいおい、このブログで書いていこうと思いますが、書き始めると終わらなくなるため、ここではとりあえず認識主体の認知を規定するものがメタファーであり、認識主体であるヒトそのものの認知がメタファーそのものであり、このメタファーを変えると心の高次にある認識に変化が起こるということをざっと書いて次の話に移りたいと思います。

Multiple Embedded Metaphors

それで、ここで2つ前に書いた「黄金比と神話のパターン」というところに戻って考えましょう。


ハリウッドの映画や小説などでジョセフ・キャンベルの神話のパターンが使われているということについて説明しました。

 それで、ここではこの神話のパターンに加えて心理療法家のミルトン・エリクソンがクライアントの認識を変化させるために用いたストーリー・テリングの手法である Multiple Embedded Metaphors (以下MEM) について少し書いておくことにします。この手法はランクトン夫妻によって形式知化されたエリクソンのテクニックの一つです。[3]

 この手法は心理療法以外にも聴衆の信念・価値観などの高次の認識に働きかけて、これらを変化させるための演説やプレゼンテーションに活用されています。余談ですが、オバマ大統領の演説にもよく練り込まれたメタファーが活用されていることが分かっています。[4][5]

  最初に、この手法の前提について書いておきます。この手法は心理療法家がクライアントの話を非常に注意深く聴き、クライアントを制限している認識の歪がどこにあるのか?といったことを特定した後、ここに働きかけることを意図して心理療法家が設計して作成する形式になります。この設計方法も相手の認識の歪に併せて、割りと厳密に行う必要がありますが、この話も長くなるので、このブログのテーマとしておいおい書いていこうと考えています。

 もっとも、後に心理療法家のリチャード・コップが開発した手法がこれとは逆にクライアントに自分でメタファーを考えてもらう形式の手法を開発するに至りますが[6]、大勢の聴衆を相手に演説を行うような場合は、今でも話し手が聴衆を想定してメタファーを設計、デリバーするような手法が取られます。

 次に、この手法について書いておきます。 基本的には相手の認識の歪に働きかけるメタファーを幾つか設計した後に、メタファー #(途中まで) メタファー #2(途中まで) メタファー #3 、メタファー#2 (続きから終わり) 、メタファー#1 (続きから終わり) というようにこの場合は3つのストーリを入れ子状にして話す手法が MEMになります。



Multiple Embedded Metaphors の例『八つ墓村』

 一つの例として、個人的に、神話のパターンとMEMを組み合わせたパターンで進行する映画としてパッと思いつくのが、横溝正史原作、野村芳太郎監督の『八つ墓村(1977)』です。[7]

 この構造について少し書いておくと、


メタファー #1 (戦国の昔、8人の落ち武者が村に住みつきそして殺害されるが、祟を起こして神として祀られるまで)

メタファー #2 (主人公の現代的な日常生活) 

メタファー #3 (主人公が殺人事件に巻き込まれ、村へ出向く羽目に、そして、出生の秘密を知り、この後起こる一連の殺人事件と出生の秘密が解決するまで) 

メタファー #2 (主人公が現代的な日常生活に戻る)

メタファー #3 (落ち武者の復讐が終わって丘から村を眺めているシーン)


 人によってどこで区分するのかという解釈の違いが出てくる可能性はありますが、原作をリファンすることで綺麗に MEM が適用されているケースだと考えています。

 MEMを簡単に言うと認識の深層構造に働きかけることが出来るということになるわけですが、これが上手く機能した場合は、認識が変化したり、聴衆により多くのインパクトを与えたり出来ることになると考えられます。

 尚、1977年に制作された『八つ墓村』は当時としてかなり額の多い199千万円の興行収入を上げた大ヒット作となっていることから、この一員として神話の構造+MEMの構造が何らかの要因となっていることが推測されます。

 さて、そのようなわけで聴衆にインパクトを与えたい演説やプレゼンテーションにMEMの構造を加えてみてはいかがでしょうか? ということが個人的にはここでの提案ということになります。

文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com