2011年11月13日日曜日

システム・アーキタイプについて


天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ
みな善の善たるを知るも、斯れ不善のみ
---
美が美として認識されると、そこに醜いものが生じる
善が善として認識されると、そこに不善が生じる

老子


今日は、「システム・アーキタイプについて」と題して少し書いておきましょう。

ある程度ざっくりした意図を持って情報収集にあたる

世の中にはいたるところに情報が溢れ、それが私たちに思考や行動に影響を及ぼし、結果世の中や日常生活どんどん複雑になるといった迷路に迷い込んでいるように思ってきます。

もっとも、ここでベイトソン風に「情報」を定義しておくと、認識主体が認識した2つの要素の差異、つまりベイトソンの言う「A difference that makes a difference .」で言われている「2つの要素比較による1つの違い」が1ビットの情報であり、あくまでも認識する者と認識されるものの相互関係の中に成り立つ概念となるわけです。[1]もっとも、ベイトソンの定義は情報が情報を連鎖的に生み出すようなニュアンスも含まれています


さて、一般的には、直接の経験によって集められる一次情報をできるだけ集めて処理することが良いということになりますが、当然、一次情報を集めるには時間的にも物理的にも、あるいは金銭的にも制約が存在しますので、ある程度仮説を立てて(意図を持って)情報を収集し始めることになると思いますし、本などの媒体から得られる二次情報を補完的に活用することを考えることになります。

それで、このプロセスについて考えてみると、人の認知の構造として同時に認識できる要素が7±2ということが明らかにされてしましたし、認識主体が持っている信念、思考の枠組み、意図といったことに沿って選択的注意というものが働くために、


意図して注意が当たっているところだけに焦点を当ててしまう、あるいは自分の信念、見たいものだけを見てしまう、聞きたいことだけ聞くといったことが起こります。


もっと言うと、観察する人の持っている信念、思考の枠組み、意図でとってくることのできる情報の精度が変わってくるために、仮説ともなる意図はきちんと確認しましょうともなってきます。

それで、観察によってわかったことは、意識に上げられて言葉/記号で表現され、形式知化されることになります。 当然、このプロセスにおいて言葉/記号の反対側にある情報、知覚から取り入れた質的な情報が削除、歪曲、一般化され、経験として神経系にコーディングされ、より抽象度の高い情報によって、信念、思考の枠組みが強化されるというようなことが起こります。


このような情報処理プロセスが行われると、多くの定性的な情報が落ちてしまい、より大きなシステムの一部という視点が意識されることなく、短期的、局所的な視点で情報が収集され、この情報に基づいて、意思決定、あるいは行動が行われるため、短期的で局所最適になる傾向があるように思ってきます。

逆の言い方をすると、人の認識について、定性的な情報はどんどん落ちて、それが言葉/記号に置き換えられて情報の抽象度は多少上がっていくわけですが、「それが長期的な視点、システム全体からみた要素の関係性、あるいは巨視的なパターンの認識につながるか?」

という具合にはならず、普段から訓練していないとなかなか注意が当たらないということになってしまうわけです。

より巨視的なパターンを観る

それで、より巨視的なパターンを観るための一つのツールがピータ・センゲ著「Fifth Discipline(邦訳:最強組織の法則)」で紹介されていたシステム・アーキタイプというわけです。[2]


それで、システム・アーキタイプは、ベイトソンの


われわれは、音楽という例外を除いて、パターンというものを固定して捉えるように訓練されている。その方がやさしいし楽なことは間違いないが、それでは意味がない。 結び合わせるパターンというものを考え始めるときの正しい道筋は、それがまず第一に(どいうことの厳密な意味はさておき)、相互に作用し合う部分の演じる舞踏なのだということ、さまざまな物理的な限界と生物体が固有に持ち合わせている伽によって固定されるのは二次的なことなのだということである。

グレゴリー・ベイトソン 「精神と自然」  

と引用するまでもなく、状況、認識されるモノと認識されるモノ、視点にの相互作用によって立ち現れてくるものが異なるために、あくまでも動的なパターンの母型として観る必要があります。



System Archetypes are patterns of behavior of a system. Systems expressed by circles of causality have therefore similar structure.


もっとも、Wikipedia に書かれているシステム・アーキタイプの定義を読むと、「システムの振る舞いのパターン」ということがあり、あくまでも目にみえているシステムの振る舞いを演繹的に推論したパターンである、となりますし、

「円環的因果関係」となると相関関係ではなくて因果関係を証明しながらつないでいくのは結構面倒だなとなってきます。


それで、上のリンクの野中郁次郎先生の指摘ではないのですが、何かシステムが存在しているとして、それが機械的なもの、つまり物理学的法則で説明される場合には、センゲのシステム・アーキタイプで考えても必要にして十分なのですが、

逆に、生き物のようにそれぞれが認識・行動するような関係性を表す場合にはシステム・アーキタイプではちょっと荷が重いかなぁと思っている今日この頃だというわけです。

もっとも、この根底にある考え方は、MRIにいたポール・ウォツラィックが影響を与えたラディカル構成主義的考え方ではありませんが、[3]

「外的出来事」と「認識主体の認識」には直接の因果関係はない、つまり、雨が降ったという事実に対して、それを素晴らしいと思うか、嫌だなぁと思うか、何とも思わないかは認識主体が決めている話であってどうにでも選べるとなってくるわけですし、コージブスキーの言った「地図はそれが指す領土そのものではない」つまり、領土は物理学的なロジックの世界に従い、地図はサイコ・ロジックスな心理的な世界に従い、その間には直接の因果関係はないということが重く受け止められるということになってくるわけです。

それで、今日の結論は、以下のリンクで書いた振り出しに戻るということになってきます。


文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

0 件のコメント:

コメントを投稿