2015年12月27日日曜日

メタファーと共にあらんことを

                      

 Cybernetics and Human Knowing 誌のグレゴリー・ベイトソンの生誕100年記念号に寄稿された"Patterns that connect patterns that connect."。ベイトソンの提唱した諸々の概念がスターウォーズのパロディとして説明してあって面白い。ベイトソンはオビ=ワン、で著者は教えを乞うルーク・スカイウォーカー。使うのはフォースではなく、パターン。フォースと共に・・・ではなくパターンと共にあらんことをというわけだ。メタファーでパターンを説明しているのか?パターン自体がメタファーなのか? 大きなパターンを見て、パターンを使うにはメタファーは不可欠だ。


<ひとりごと>



メタファーが問題を解決に導く

   夏目漱石は『草枕』で
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
と書いた。

 確かに、仕事や日常生活の場面を想像してもこういったことは多い。ロジカル・シンキングで相手を詰めれば抵抗は大きくなる。感情だけに従っても具体策は生まれない。かと言って、意地を通しても煙たいと思われるだけで何も始まらない。相手と自分のコミュニケーション、あるいは自分と自分とのコミュニケーションには多くの問題が潜んでいる。

 そもそも、解決することはできるのか?

 あるいは、現状を少しでもよい方向にすることはできないのか?

   という疑問は浮かぶ。

 結論から先に言ってしまうと、答えのひとつは、メタファー(暗喩)を使うことだ。人の精神とも言うべきマインドは、何かと何かに関係性を求める。その意味、人のマインドは、帰納でも演繹でもなくアブダクティブに動く。関係の無いものに関係性を求め、大喜利の謎かけのように、XとかけてYと解く、そのこころはZというロジックを無意識に続けている。誤解を恐れず言えば、「この世のすべてはメタファーである」として認識するアブダクティブな機構がいつも意識下で動いていることになる。

 相手と自分のコミュニケーション、あるいは自分と自分のコミュニケーションの間に存在しているのは<関係性>だ。言い換えれば、人類学者のグレゴリー・ベイトソンが言っていた「結ばれあうパターン(Patterns that connect.)」という動的関係性への認識に他ならない。認識を変えこの関係性を変えれば、色々なものが変わるということになる。この関係性に対する認識を変化させるために持ち込むのがメタファーということになる。[1]
 
 メタファー(暗喩)は、心理療法家のミルトン・エリクソンが使っていたことでも知られている。[2] [3] 。また、認知言語学の根幹でもある。[4] 効果的なメタファーは人の認識のやり方や枠組みに影響を与える。上で書いた自分と自分のコミュニケーションに新たな関係性を持ち込むことになる。意識と無意識のコミュニケーションの関係性を変化させると言い換えてもよいだろう。メッセージは意識に言葉取りに解釈される、が、メタ・メッセージは無意識にアブダクティブに解釈される。この間の不調和を解消するのがメタファーだ。もちろん、自分と相手の場合のコミュニケーションも同じだ。


メタファーのコミュニケーションは角を立てない

 歌舞伎や人形浄瑠璃の演目に『仮名手本忠臣蔵』というのがある。最近、両国の吉良邸跡から泉岳寺まで義士の帰路を散歩したので連想した。この散歩に特に意味はない。『忠臣蔵』は、18世紀のはじめの江戸時代に起こった『赤穂事件』を題材にしている。[5] 江戸時代に起こった事件を江戸時代に直接取り上げると御政道を批判していると取られかねない。そこで作者は舞台設定と登場人物を室町時代に置き換えて『仮名手本忠臣蔵』とした。今で言うと「この物語はフィクションであり、実在の団体、人物とは一切関係ありません」ということだ。

 作者は、吉良上野介義央を高武蔵守師直、浅野内匠頭を桃井若狭之助安近、大石内蔵助を大星由良助義金・・・・・、四十七士と明示せずに仮名手本でいろは47文字からそれを示唆した。観客は、誰もが『赤穂事件』のことだと解釈する。大星由良助に大石内蔵助を重ね、そして義士たちを現実にかせね思い描く。しかし、江戸幕府の役人に取り調べられても、これは室町時代を題材にとった架空の物語だと言い逃れができる。
 
 江戸幕府にも角を立てず、かつ、観客には臨場感がある『赤穂浪士』として楽しませることができる。これも、江戸時代の作家がメタファーの効用を理解していたからだ。逆にいうと、作者が幕府と観客の間で二律背反になっている状態をメタファーが解決した、ということだろう。日常生活や仕事の場面でも「あっちを立てれば、こっちが立たず」という場面は多い。こんな時、二律背反を両立させるメタファーを考えてみるというのもよいのだろう。余談だが、評論家の小室直樹氏は、『赤穂事件』は業務上横領だという論を展開したし、作家の井沢元彦氏は、浅野内匠頭は統合失調症で、心神喪失状態での犯行であり、仇討するのはそもそもおかしいという論を展開した。これはこれで別のメタファーとしてみれば興味深いようにも思える。もっとも、こちらは敢えて角を立てるメタファーになっているようだが(笑)。

 さて、実世界に起こっていることと同型のパターンをメタファーにマッピングすることをアイソモルフィズム(Isomorphism)と呼ぶ。[6]  心理療法家がクライアントにメタファーをつくる場合も、このアイソモルフィズムは重要なポイントとなる。要は、『仮名手本忠臣蔵』の登場人物や状況設定のマッピングの要領だ。示されたメタファーから聞き手は実在の人物や状況を思い浮かべる。これを慎重かつ緻密に行う。これがメタファーが臨場感を伴って機能する必要条件のひとつである。 


メタファーのコミュニケーションは情に流されない
     
 情に流されて決断したり、あるいは行動したりすると、だいたいはロクな結果にならない。直情的な情動として怒りが起こる。怒りに任せて反射的に行動する。結果、後で後悔する。大体こんなことになる。気持ちのやり場は解決できる。それも直ぐに。だが問題が解決することはない。

 情に反応しているとある意味楽だ。感情に反応しているだけでよいからだ。トートロジーのようでもある。が、情に反応しているだけでは問題の大きなパターンは見抜けない。視点が低いからだ。感情は認識の結果であり、問題を解決するレバレッジポイントにはなり得ない。可哀想と同情しているだけでは何も解決しないことを考えれば明らかだ。

    こういう時、二重の意味でのメタファーが必要だ。ひとつは気持ちをマインドフルネスに導きそして保つためのメタファー。[7]  そして、もうひとつは、現行の問題を、既存の枠組みから出てそのシステム自体をメタ認知することでシステム論的に解決するためのメタファーだ。[8]
 
 メタファーが上手くハマれば、気持ちや認識、行動に変化が起こる。 それも、あらゆる抵抗をすり抜け、いままでの思い込みの箱から飛び出すような形式で。その意味、メタファーの「メタ」は枠組みの外にある視点に立つということでもある、しかもメタファーを使えばそれが無意識に行われる。要は、情に流されずにより大きいサイバネティック・ループが見えるようになり、メタの視点からの打ち手を考えられるようになるということだ。


メタファーのコミュニケーションは意地を通さなくてもよい
  
   米大統領予備選挙のディベイト、Youtubeで視聴すると、ドナルド・トランプは特に威勢がいい。カーリー・フィオリナ候補に向かって、お前は無能経営者だ、合衆国の経営など任せられない。難民は米国に来るな。オバマはゴルフのしすぎだ。レイムダックなんてやってないで真面目に執務をしろ・・・と非常に辛辣だ。

 金持ちで怖いもの知らずの特権か!? とりあえず子供のように意地はなんでも通してみる。行き着くところまで行き着いたコミュニケーションのパターンは社会実験としては興味深い。

 もっとも、日常生活や仕事の場面では、上手くいかないだろう。特に日本ではそうだ。日本のコミュニケーションはコンテクストが高い。本音を言挙げしてズケズケと物を言うリーダーのようなスタイルは案外危険視される。上から目線で命令されても抵抗される。強く押せば押すほど、押し返される抵抗は強くなる。仮に社長のような権力を持った地位でも、まわりに茶坊主ばかりが集まって来て、会社は傾きはじめることになるだろう。やはり、高コンテクト故の間接表現が好まれる。

 そこで使う技法のひとつがメタファーとなる。

 米大統領選挙でもそうだ。クリントンは、J.F.Kに自分のイメージを重ね演説や振る舞いまで J.F.Kを意識して真似て彼の再来だというイメージを演出した。要はメタファーだ。まぁ、結果は、J.F.K.の助平なところまで真似してしまったのが最悪だったのだが(笑)。コーチのアンソニー・ロビンズがコーチングをしたなどと偉そうに語られる。が、実際は、このホワイトハウスでの不倫を国民とヒラリーにどう説明しよう?という情けない相談に付き合わされたというのが本当のところだ。所詮その程度だ。

 オバマはやはり同じように J.F.K.やキング牧師に自分のイメージを重ね、催眠言語まで駆使して大統領選挙を勝ち抜いた。[9]が、外交は最悪、国内でもコミュニケーションが苦手な史上最も無能なモンロー以来の引きこもり大統領として記憶されることになるだろう。結局、小手先のテクニックではなんともならないのだ。これは、就任当時に評論家の勝谷誠彦氏がコトダマ大統領の危険性を指摘していた。流石だ。

 もっとも、当選まではメタファーが有効に働いたことは間違いないのだろう。意地を通さないソフト路線でJ.F.K.に便乗して虎の威を借ることに成功した。だがその後は実力が問われる、と。

 さて、ドナルド・トランプ候補だが彼がドナルド・レーガン自分に重ね、メタファーとして使い始めたら要注意だが、おそらくそうはならないだろう。よい意味でも悪い意味で、トランプはトランプの後にトランプなしトランプの前にトランプなし、俺は俺だと思っているからだ。その点はある意味清くもある。意地を通して大きな抵抗にあう。だから大統領にはならないだろう。
 
 余談だが、HP時代のフィオリナ候補もメタファーを活用した。ガレージのルールなる標語を使って、創業の精神に戻ろうと提唱し、創業者の威を借りて会社を改革する作戦を展開した。[10]ハマれば、老舗の日本企業でも有効なアプローチでではあるのだろう。高コンテクストではメタファーの間接表現は有効だ。もっとも、フィオリナ候補を招聘した先のCEOルー・プラットはハーバード・ビジネス・レビューのインタビューで「人生で一番後悔しているのは彼女をCEOにしたこと」と後悔していたようだ。が、最近では、歴代のCEOとしては良くはないが、言われているほど最悪でもないという評価に変わってきている。憲政の常道を無視した民主党の無能数珠つなぎ総理ではないが、その後が最悪続きだということだ(笑)。

 何れにしても大統領選挙で、どの候補がどのようなメタファーを使っているか?どんなメタファーで有権者に働きかけているのか?という視点で眺めてみるのもまた一興ということだ。おおらく上手なメタファーで自分を引き立てた候補の決戦投票になる。

 長々と書いたが、人類学者グレゴリー・ベイトソンを継承する流派であるジェダイの騎士ならぬ、ベイトソニアンが心に置いているのは、「メタファーを使え、ルーク! Use Metaphor Luke !」「パターンと共にあらんことを! May the  Pattern with you !」の標語とともに、メタファーという名前のパターンを見抜き、メタファーという名前のパターンを使え、ということになるのだろう。
  

(つづく)

 文献

記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月22日火曜日

葉隠とラポールと間接暗示

                         

 それとはなく、暗示することで相手を立てるというのは
 今でも重要なことなのでしょう。
 
 <ひとりごと>


武士道とはラポールと間接暗示と見つけたり

  最近、ブックオフで面白い本を見つけた。徳間書店版『葉隠』[1]。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という例のアレが書かれている山本常朝の語りを田代陣基が書き留めた著作だ。歴史小説家、安倍龍太郎『葉隠物語』の元ネタにもなっている。

 もちろん、江戸時代これが諸藩の武士たちに愛読されたかというと、そういうことはなくて、山本、田代の所属した鍋島藩ですら、ご禁書のような扱いで、ある意味、エッチな本のようにこっそり読むような本だ。また、鍋島武士のお城勤めのハウツーが書かれているような本でもある。

 それで、この中にこんな記述がある。

 人に意見する際には、まず相手がそれを受け入れる気持ちがあるかどうかをよく判断し、お互いに心を打ちあけあるほどの仲となり、こちらの言葉を信用できる状態にしなければならない。その上で、趣味のことなどから気持ちを引き、いい方、いう時期などをよく考え、手紙を利用し、暇乞いの折にふれ、あるいは自分自身の弱点や失敗などの話をして、直接相手に意見せずとも思い当たるようにするのがよい。また、まず相手の長所をほめ、気分を引き立てておいて、ちょうど喉の乾いた時に水を欲するように、こちらの言い分を自然に受入れさせ、欠点をなおしていくのが本当の意見である。大変むずかしいものである。
 注目する点はいくつかある。

 第一は、心理療法などで言われるラポールの重要性だ。意見をする時は、少なくとも、相手から、「こいつは信用できそうだ」と心を通わせなければならない、ということだ。そして、第二は、相手とラポールを築いた上で、間接表現、あるいは心理療法家のミルトン・エリクソンが使っていた間接暗示でもって、それとなく、相手に気づいてもらうように仕向けなければいけないということだ。手紙を用いたほうが良いとも書いてある。こうすればお互いの気持ちがエスカレーションすることはないだろう。

 これが18世紀に書かれたというのはある意味驚きだ。もちろん、『葉隠』が書かれたころは幕藩体制も固まっており、武士も随分気が緩んできた状態だとも想像されるのだが。

 何れにしても変な自己啓発本を読むより、今でもよっぽどためになるというのがこれまた面白いところなのだろう。

(つづく)

 文献


記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月21日月曜日

2015年をリフレーミングする

                          

 経験自体を変えることは出来ないが、

 その意味は変えることが出来る。

 意味を変えることで色々なことが学べる。対象に対する反応も変わる。

 また、これから実行することのアイディアが浮かんでくる。

 <ひとりごと>



2015年にハマったパターンをリフレーミングして2015年を修了する

    結論から先に言うと、<除夜の鐘>ではないけれど、今年の出来事をリフレーミングして、2015年の出来事を良い意味に変えて1年の区切りをつけるというのがここでの趣旨だ。別に108個の出来事という具合に数にこだわる必要はない。今年、あった嫌な経験、ハマった経験。これをリフレーミングして意味を受け止めながら1年を締めくくるのは非常に重要な気はしているところだ。もっというとリフレーミングは心理療法として治療のためだけに限定していたのではもったない技法でもあるということだ。

 さて、心理療法の技法にリフレーミングというのがある。カリフォルニア州パロアルトの心理療法の研究機関のMRI (Mental Research Institute) でポール・ウオツラウィック、ジョン・ウィークランド、リチャード・フィッシュらが最初に定義したとされる短期療法の技法だ。[1] [2]  MRIは、人類学者のグレゴリー・ベイトソンや家族療法家のヴァージニア・サティアも在籍した歴史のある機関だ。今でもスタンフォード・メディカル・スクールで教えている人たちも在籍している。

 余談だが、パロアルトは、<シリコンバレー>と呼ばれる地域の中核都市の一つである。サンフランシスコからサンノゼを貫く鉄道としてカルトレインがある。パロアルトはサンフランシスコとサンノゼの途中にある。カルトレインのパロアルト駅を下車して、サンノゼ方向に向かって左手へ降りる。スタンフォード大学を背にして、ユニバーシティ・アベニューを300m ほど下り、右折して100mほど歩くと古風なアパート風のMRIがある。7月あたりは紫陽花が咲いていてとても美しいところでもある。個人的には新卒で入社した会社の本社があるところでもあり、出張でよく行った想い出深い場所でもある。



 MRIは短期療法の代名詞のようにも言われるころがある。確かに、心理療法家のミルトン・エリクソンを研究していたチームは有名だ。しかし、この研究機関は精神分析から始まってEMDRのフランシーヌ・シャピロ博士が在籍しているようなところでもあり、ミルトン・エリクソンを継承するエリクソニアンたちは、気を使って、MRIの短期療法を Interactional Therap とか Strategic Therapy とか呼んでいる。前者は、エリクソンを形式知化したコミュニケーションのやり取りに主眼を起き、後者は現実ー理想を埋める戦略に主眼をおいていることになる。

http://ori-japan.blogspot.jp/2015/11/blog-post_29.html

 さて、ウオツラウィックらは彼らはクライアントがどのような物事の見方をしているのか?どのような枠組みで見ているのか?彼らを治療するのはどのようにするのか? 認識論(Epistemology) やコミュニケーションをプロセスに還元して研究していた。それで、物事を見る枠組みを転換する技法がリフレーミングということになる。

 もちろん、リフレーミングが成功した結果、出来事や対象に対する<反応>も変わる。(一次的変化、二次的変化のレベルの違いはあるのだが)。<反応>は、一般意味論が<意味反応(Semantic Reaction)>といっているものだ。枠組みを変えることで、出来事や対象の意味が変わる。結果、それから起こる反応や気持ち(情動、感情)、振る舞いも変わるという理屈だ。もちろん、<反応>は大抵無意識レベルでの習慣のようになっている。そのため、単に意識でロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングのようなことをやっても変化はしないのも興味深い点ではあるのだが。

 ここでは細かい技法のプロセスは書かない。が、経験を一旦プロセスに戻して再考してみる。そして、その経験を以下のような枠組みから再考してみるということになる。あくまでも一例だが・・・
 

  • 問題を機会として捉える
  • 弱みを強みとして捉える、あるいは強みとなる状況を探す
  • 直近では不可能なことを未来では可能なことと捉える
  • 距離の遠い可能性を距離の近い可能性と捉える
  • 反対意見、抵抗を中立な何かと捉える
  • 相手の不親切、無理解を理解の欠如と捉える
  • その他・・・

 
 もちろん、リフレーミングは、ポジティブ思考ではない。ネガティブをポジティブと単純な二元論で物事を見ているリフレーミングは大抵失敗する。やる気がいつもよい方向に行くとは限らない。また、やる気のあるバカほど厄介なものはないからだ。バカの定義については以下で書いた(笑)。

http://ori-japan.blogspot.jp/2014/10/blog-post_7.html

 だからある意味、悲観するわけでもなく、楽観するわけでもなく、最後は現実主義者として、現実やそれが起こっている状況を含むシステム自体を見るようにすることが重要だ。もっと、普通はこのシステム自体に自分が含まれるために冷静でいられないというのがそもそもの問題だったりするのだが。もちろん、逆の場合もある、本人は前向きで気持ち良いのだが、やり方がまずいので結果が出ないという場合だ。自己啓発にハマるのは大体このパターンだ(笑)。

http://ori-japan.blogspot.jp/2015/11/blog-post_38.html

 何れにせよ、気持ちよく、結果が出る行動ができるように、認知の枠組みを見直す、これがリフレーミングのゴールのように思えてくる。英語で言うと Congruence がそのねらいだということだ。家族療法家のサティアもこれを重視していた。ポジティブになるのがゴールではない。重要なことは Congruence で、ゴールに対して気持ちや行動が一致しているということだ。

http://ori-japan.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html

 そのようなわけで、自分を含んだ問題システムに対して<メタの視点>に出てみる。人の振り見て我がふり直せではないが、自分の振り見て我がふり直せ、というようなシステムの外から自分を取り巻く状況を見てみるには<メタの視点>は必須だ。ここで自分がどのような枠組みでそれをやっているのか?枠組みを変えたらどうなるのか?を観察することになる。枠組みを変え、思考プロセスを変え、行動を変え、とシミュレーションしてみることになる。

 もっとも、良いブリーフ・セラピストやコーチがいればクライアントは意識する必要はないのだろうが、ここではそれなしで独力+<メタ認知>でやっているのでこういうことになってくる。自撮りではないが、自分で自分を<メタ認知>だ。紙にマインドマップでも書きながら自分の世界観を<メタ認知>しながらリフレーミングをやってみると良いのだと思う。

 そのようなわけで<除夜の鐘>ではないが、一つ一つの煩悩をシステム思考でニュートラルに観察するリフレーミングをやってみているところだ、人と比べて煩悩はそう多くないと、思ってはいるのだが(笑)。

 前向きになる必要もない。ポジティブになる必要もない。単にシステムの中で自分がどうだったのか?<メタの視点>に出て、ひたすら<メタ認知>するだけだ。

 余談だが、リフレーミングの結果得られる変化にもレベルがある。ウオツラウィックがロス・アシュビーを援用してつくった一次的変化(First-Order Change)と二次的変化(Second-Order Change)だ。以下にも書いたように<変化が変化する>二次的変化には艱難苦難(という少なくともその認識)が必要で、そのジレンマ、ダブルバインドからぬけ出すこと自体が大きな変化を導くと書いた。

http://ori-japan.blogspot.jp/2012/01/blog-post_23.html

 その意味では行き詰まりを感じている方ほど、大きな成果が得られるとも言えなくはない。だが、行き詰まりを感じている時は、目の前の対象ばかり、すぐ近くの対象ばかりが気になり、これを意識すればするほど、行き詰まっていくということにもなる。だから、<メタの視点>でもって自分をシステムの外から外在化してみるというのが一つのポイントになる。もちろん、行き詰った時は自分で<メタの視点>を持つことは難しいのだろう。だから、優秀でプロフェッショナルなブリーフ・セラピストやコーチが支援するという構図がここにあることになる。


 何れにしても年の暮れの区切りとして、翌年を一皮二皮むけた形で迎えるためのリフレーミングは重要なのだろうなと考えている。

そんな、こんなで2015年の年末は過ぎていき・・・・新しい年を迎える準備も進んでいる・・・・・
 
 
(つづく)

 文献

記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月18日金曜日

ミルトン・エリクソン論文集(vol.1 〜 vol.4)

      

 ひょんなことから、心理療法家のミルトン・H・エリクソンの論文集

 が手に入った。

 年末、年始に読んでみようと思っているところ。


 <ひとりごと>



マニュアルを読んだからスポーツがうまくなるわけではないけれど

 心理療法家のミルトン・H・エリクソン執筆、おなじ心理療法家のアーネスト・ロッシ編集の論文集を手に入れた。本当は、知らない間に、向こうからやって来たという感じだが(笑)。




 なぜ、今更エリクソンなのか?

 という疑問はある。しかも、エリク・エリクソンではなくミルトン・エリクソン。で、答えのひとつは、マネジメント・コンサルタントとして人の認知や組織の振る舞いまで扱おうとすると、ミルトン・エリクソンがやっていたような方向を扱わなくてはいけなくなるから、という安直なもの。人類学者のグレゴリー・ベイトソンではないが、少なくともエリクソンの技法は保留しても、ストーリーやメタファーを別の状況の問題解決に持ち込めるという仮説は立つ。・・・・本当は技法も使えるのだけれど・・・

 普通の心理学ではダメなの?

 もうひとつの答えは、エリクソンの本質のひとつは戦略的なプローチだ。つまり、現状-理想をどのように埋めるのか? 少なくとも、ヘイリーはそう見ていた。もっとも、現状ー理想を穴を埋めるように何か土でも詰めれば理想になるのであれば苦労はしないのだが。逆に言うと現状から何か積み上げたからといっても理想にならないところが面白いところでもある。

  加えて、理想のゴールは既存の枠組みを超え、その達成の行動支援も行う、
のがあるので、実は通常のコンサルタティブなアプローチと非常に相性が良い。スタイルは違うけれどやっていることは同じ。特に、人や組織の変化を扱う場合、深い洞察が得られる。逆に言うと、精神分析のように過去に遡って原因分析するようなアプローチにはあまり興味がない。

 人と組織を扱う

 他の答えは、エリクソンは家族とか集団をシステムとしてみているところがある。朱に交われば赤くなる。集団の中では個々人の性格分析やタイプ分けみたいなものをやってもクソ役ににも立たない。逆に言うと、組織の問題を解決するために、組織の変化を扱う場合は、人や組織をひとつのシステムと考える家族療法的なシステムズ・アプローチが必要だということだ。

 それに、ナラティブやメタファーの要素も入っていて、色々興味深い・・・・と、まぁ、理由を上げていくとキリが無くなる・・・・・・個人的な趣味として、一見して怪しいというのも興味をそそるところ(笑)。怪しいことを怪しくない方法で説明する、実行することは非常に面白い取り組みだからだ。

 エリクソンを観察するモノサシの必要性

 もちろん、エリクソンを見るためのモノサシとして、東海岸系のサイバネティック、西海岸系のエナクティブな認知科学と一般意味論はひととおりおさらいはしたという前提。一般意味論やエリクソンを研究したMRIの人たちは、コミュニケーションを<統語論><意味論><語用論>の3重記述をしなさいと言っているけれど、発想はこういうこと。こういった枠組みがないとエリクソンが何をやっているかすら理解できない。また、いくつかの枠組みで相対的に見る、メタに見るというのは案外重要だ。


 もちろん、エリクソンを学ぶ基本は内弟子制度のような暗黙知ー暗黙知のモデリングになるが、上のようなフレームワークがないと文章として形式知化した時に非常情けないものになる。また、余談だが、<統語論>のモノサシとしてだけ使うのであれば、NLP(神経言語プログラミング)もそう悪くはないと個人的には思っている。ただ、<統語論>だけしかないと、それはそれで困るし、これが問題を引き起こすことにもなるのだが・・・

 もっとも、こういうモノサシが何も無いと、カルトに流れていっても自覚できないので注意が必要だ(笑)。まぁ、笑い事ではないけれど、エリクソンを研究する時は、こういった命綱を張った上で入っていたほうが良いと思う。

 また、個人的にはエリクソンの十八番のように言われる催眠自体はあまり興味がない。やれと言われればやるけど、あくまでもおまけ(笑)。理由は、人や組織の認識や行動の変化を支援するのに(明示的な)催眠は必須ではないから、状況設定とシステムズ・アプローチが基本。だから、立ち位置はいつも人類学者のグレゴリー・ベイトソンでメタの視点を立てて<統語論><意味論><語用論><システム論>から見ている感じにはなっている。

  ウンチクが過ぎた。本題に入ろう。


  さて、本題   全4册で、一冊が 500ページ強となるので、全部合わせると 2,000ページ前後の分量。内容は、学術誌「American Journal of Clinical Hypnosis」に掲載された論文中心で、ロジカルに書かれているので読み応えがある。

 1.The Nature of Hypnosis and Suggestion [1]

    2. Hypnotic Alteration of Sensory Perceptual and Psychophysical Processes [2]

    3. Hypnotic Investigation of Psychodynamic Processes [3]

    4. Innovative Hypnotherapy [4]


   1冊目を100ページほど読んでみたところだけれども、中々興味深い内容で満載だ。面白そうなネタとしても活用できそうな感じはしている。何れにしても年末年始、愉しみながら、読むことにしている。確か、2.は日本語訳を読んだ記憶があるけれど、探すのが面倒臭いのでとりあえず原文で読むとする。

(つづく)

 文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月16日水曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その8)

           

 こころを拡げて見たり、聞いたり、感じたりするのは案外難しい。

 いままで身につけた、先入観や思い込みがそれを邪魔をするからだ。

    が、こころが拡がれば、世界が広がるということでもある。

 それには、認識ー行動の相互作用が必要だ。

 結局は、現場で現物を触って何かやって現実を見て枠組みも見直す

 ということだ。

 <ひとりごと>



心を開いて見てみる、聞いてみる、感じてみる

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


セラピストはクライアントに答えを与える必要はない

心を拡げて、現実を見るお手伝いをするだけだ。



 某月某日、月夜の夜。川辺を散歩する。

 東京スカイツリーが視界に入ってくる。展望台周辺で光の帯が360度定期的に回転している。灯台のような強い光ではない。が、こちらに届いているのは確かだ。こちらを照らしているという屁理屈にはなる。

 オートポイエーシスの提唱者であるマトゥラーナ、ヴァレラの「知恵の樹」[2]にあった有名な一節を思い出す。「いわれたことの全てには、それをいった誰かがいる」。光の帯が「照らしたすべてには、照らされた何かがある」ということだ。世の中、持ちつ持たれつ、お互い様、と日本人は、大昔から人や自然との関わりの中でサイバネティクスを実践してきた。ノーバート・ウィーナーに教えられるまでもない。が、形式知にはなっていない。

  お互い様と言えば、浮かぶのは<問い>と<答え>だ。

 <答え>というのは<問い>と一対の概念だ。 敢えて前後をかえて書いた。<問い>があると<答え>らしきものが出てくる。<答え>が<問い>に影響を与えることもある。<問い>と<答え>の間には円環的サイバネティク・ループがある。灯台と照らされている対象との関係がこれだ。

  <問い>は知覚の注意を絞る。意識的に何かに焦点を当てるように促す。<答え>は焦点を絞り、何かに集中することから始まる。しかし、<問い>は注意の反対側を無視する。そもそもコトバがそういうものだからだ。[3] メッセージ以上のメタ・メッセージがなければ、注意は反対側へは向かない。

 また、<問い>が認識の枠組みや処理プロセス自体に向けられることは少ない。<問い>は認識の枠組みや隠れた前提を問わなければ、既存の枠組みを超えられない。が、そもそもそういった使われ方は少ない。意識すればするほど、反対側の無意識の情報処理プロセスは無視される。また、意識的に無意識に注意を向けても抵抗が起こるだけだ。

 深い洞察のない<答え>が表層的になる、あるいはマンネリで変わり映えのしない<答え>が出てくるのは上で述べたパラドクスが潜んでいるからだ。照らされたものだけを意識する、しかし、照らしている側の無意識のプロセスは無視される。<問い>に集中すればするほど<答え>を探すための視野は狭くなる。ここでは、既存の枠組みはそのままだ。いつもの前提を置いていつものプロセスで情報が処理される。だから必然的に小さな<答え>しか産出されない。「頭のよい人」の<答え>はいつもこんな感じだ。<問い>に答えているだけで、その枠組みや処理のやり方が問われることはない。<答え>は<問い>に反射だけする格好になる。月並みなコーチングが使えないのもこういう理由だ。

   一方、よい<答え>は、よい<問い>から始まる。その文脈での深い洞察と、偶発的なことから創発する。無意識にも向けられた<問い>からはそういうことが起こる。ミルトン・エリクソンがやっていたことだ。無意識だけが真のシステム思考を知っている。大きな<答え>が見つかる。その意味では、クライアントの無意識に、心を開いて現実を見てください、と、クライアントの意識の抵抗を回避してメタ・メッセージを投げ込むのがエリクソンのスタイルだとも言える。

 もちろん、妄想しろというのではない。クライアントが望むものでなければならない。現実から、枠組みや思い込みのメタファーであるベイトソンの<結ばれあうパターン>をクライアントなりに再構築するのがねらいだ。<結ばれあうパターン>はメタファー、ドミナント・ストーリー、神話・・・色々な言い方がある。何れにしても、メタの視点から今の枠組みや処理プロセス自体を見る、聞く、あるいは感じることになる。<結ばれあうパターン>を変化させたければ、<《結ばれあうパターン》についてのパターン>の視点が必要となる。認知科学でいう<メタ認知>だ。どこかの自己啓発グルが<抽象度>を上げろと言っているのもこういうことだ。もちろ、メタ視点は、メタ・メタ視点、メタ・メタ・メタ視点と合わせ鏡の中のように続く。いつかは、いままでの思い込みを超えることができる。

 心を開いて物事を見る支援ができれば50点は得られたと思ってよいだろう。が、先は長い。残り50点の部分だ。

 深い洞察で<答え>が得られた。しかし、それは単なる<アイディア>でしかない。単なる観念だ。紙に書いた餅は食えない。<問い>と<答え>を認識の世界に閉じ込めたとしても、<結果>は認識ー行動のサイバネティック・ループの世界で実現しなければならないからだ。実行してみないことには何も得られない。身体化された知恵が必要だ。逆にいうと、身体化された無意識の暗黙知を活用できる。アイディアは実行できてはじめて価値がある。逆に実行しないことには身体知からのフィードバックがない。日本の製造業が大切にしている<現場・現実・現物>ということだ。エリクソンを継承するエリクソニアンがトゥルーイズム(Trueism)と言っていることと同じだ。


 しかし、それでも、最初からうまくいくことは少ない。実行できないこともある。実行には抵抗がつきまとう、それも認識のレベルだから厄介だ。[4] 頭でっかちに抵抗される。

 実行する方法はある。

 エリクソンなら、こういう治療的ダブルバインドを話すだろう。二股に別れている道があります。あなたは、そこを歩いています。後ろからクマが迫ってきています。あなたは右側から左側へ逃げなければなりません。右へ行っても助かるでしょう。左へ行っても助かるでしょう。あなたは、どちらへ行って助かりたいですか?という具合だ。状況に必然性が生まれる。何事にも状況設定は重要だ。演劇の良し悪しを演出家が決めるように。

 状況が切迫していない場合のバリエーションもある。

 プロジェクトA、B・・・・のうち、どれで失敗したいですか? うまく行けば、あなたは1週間で失敗します。もっと早く失敗するのはどのようにすればよいでしょう? もっとうまく失敗するにはどうすればよいでしょう? 何れにせよ、あなたは失敗することに成功します。失敗しなければ、普通に成功します。

 これは、「失敗は単なる成功へのステップでしかない」「失敗は悪くない」という枠組みの転換でもある。もっと言うと、実行するが当たり前の前提が滑りこませてある。もちろん、多くの企業では、相手の失敗を政治的に使って相手より有利な立場で振る舞おうとしている輩が多いのでその点は注意は必要だろう。

 が、実際にやってみないことには失敗もしない、ということでもある。失敗や成功というのは概念の世界にだけある。実際に手を動かし、体を動かし何かを実行してみると、実際にあるのは知覚の世界だけだ。もっというと世界との関わりというフィードバック・ループがあるだけだ。

 何かやってみる。最初に立てた<問い>や<答え>が少し揺らぐことがある。現実が認識と相互作用した瞬間だ。実行しなければ決して起こることはない。

 このループを回していくことで、思い込みが揺らいでくる。


 さらに、ループを回していく、最初より少しだけ心を開いて物事をみることができる。

 さらに・・・・・

 と続ける。間にあえて、<問い>と<答え>を言語的に磨いてみる。これは重要なことだと思う。

 エリクソンがやっていたことはこんなことだ。これは、コンサルタントやコーチにも必要なことなのだろう。

 クライアントが心を開いてものごを見たり・聞いたり・感じたり、とは言ったものの、サイバネティック的には、まず、コンサルタントやコーチがそうでなくてはならないということなのだろう。サイバネティックスの本質は、「お互い様」なのだろうから・・・
 

・・・・・・・・・・・・

 散歩の帰り道、 

 月が照っている。凪の夜、月が川面に映る。スカイツリーの姿も。

 これから月照と連想してはいけない。安政の大獄の影響で西郷隆盛と一緒に錦江湾に飛び込んだ坊さんだ。ただ連想せずに景色を見る。いや、景色は見られている。

 世界は、相互作用に満ちている。世の中は<結ばれあうパターン>から成り立っている。それ以外はない。その意味仏教的にはすべてが「空」の世界だ。

 コインパークの「空」の電光サインを見て、そんな考えが浮かんできた。

 仕事で使えるミルトン・エリクソン、全8回はとりあえず修了。

(つづく)

 文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月11日金曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その7)

              

 クライアントとコンサルタントとの関係はどうあるべきか?

 登山者とシェルパ、

 こんな関係がよいのだろうなぁと。


 <ひとりごと>



一介のガイドとしてクライアントに寄り添う

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


セラピストは教祖ではない
一介のガイドとしてクライアントに寄り添うべし。



 某月某日、早朝某駅、新幹線の窓側席に座る。外は強い雨。窓を伝って水滴が落ちる。

 新幹線が駅を発つ。速度が増す。水滴が窓を水平に流れはじめる。

 一粒の水滴が現れ、流れ、窓枠の外に去る。・・・・別の水滴が現れる。もう一粒の水滴と合い、少し大きな一粒となり、流れ、窓枠の外に去る。・・・・別の水滴が現れる。別の一粒の水滴と合い、ひとつになり、後ろへ流れながら2つの粒にわかれる。そして、窓枠の外に去る・・・・

 枠の前を推し測らない、枠の後もそうだ。上も下もそうだ。結果、範囲が決まる。

 暗喩として連想しない。窓に流れる水滴を見る。そして、少し巨視的にパターンを見る。

 窓枠で設定された世界は小さい。が、窓枠は動く。時間軸が設定され、はじめとおわりが明らかにされる。水滴も動き始める。主観客観は保留しておく。この制約の中で動的な関係性が浮き上がってくる。ベイトソンの「結ばれあうパターン(The patterns that connect.)」はどこにでもある。[2]  ただ、気づいていないだけだ。

   人間関係もパターンだ。ベイトソンなら「結ばれ合うパターン」、日本人なら「縁」と見る何かだ。

 ベイトソンたちは、関係を動的なプロセスとして見た。そして光をプリズムで虹に分解したように、いくつかののパターンを取り出した。

 <水平>な視点で、同じ対称の関係をシンメトリカル、違う相補的な関係をコンプリメンタリー、それぞれが共存している状態をレシプロカルとした。 ウオツラウィックらはこれを発展させて、<垂直>な視点で、メタ・シンメトリカルとメタ・コンプリメンタリーな関係を追加した。メタ・シンメトリカルは、一方がもう一方に同様に振る舞うのを許す、メタ・コンプリメンタリーは、一方がもう一方に自分の責任を示すように許す、となる。[3] 誤解を恐れずに言えば<上下関係>が追加されていることになる。

 極端すぎる例で言えば、メタ・シンメトリカルは子供扱いする相手に、自分を同等に扱うように接する場合。メタ・コンプリメンタリーは、同等に扱おうとする相手に、自分を王様のように大切に扱えと接する場合である。状況に応じてはかなりうざい感じになる。自己啓発などで自分はカリスマだと自称して、相手に自分をカリスマと扱えと言っているような場合は、メタ・コンプリメンタリーが行き過ぎた場合だろう。かなりうざいし、普通の人はドン引きとなる。

 少し前、夜に家のご近所の橋上でドラマのロケを行っていた。ご近所でよくドラマのロケをやっている。おそらくアクセスが良く交通整理が容易だからだ。散歩の途中そこに出くわした。そこで、誰でも知っている有名な女優!?が撮影に望んでいた。(敢えて名前はかかない)ヒントは推定身長 171cm で世間では美人だがお騒がせな人として有名な人だ。

 普通、女優や男優は撮影が終わると、脇に止められたロケバスに隠れるように乗り込む。場合によってはサングラスをかけたり、マネージャらしき人が周りを囲んでがっちりガードするという具合だ。こういう場面を何度も見た。無用なリスクはできるだけ避けるという配慮からだろう。

 また、そこを通った、そこに興味があったからではない。帰路もその橋を通る必要があったからだ。なんと、その女優はそのあたりを一人で歩きまわっていた。ピンヒールにモンロー・ウォークで。もちろん、サービス精神に溢れている、とも考えられるだろう。しかし、私は、この人はメタ・コンプリメンタリーな関係が強い人なのだろうなぁと見立てた。要は、私を女王様として扱え、私に注目して!というメタメッセージが強すぎるのだ。もちろん、普通ではないのが芸能人や女優なのだろう、でも普通の芸能人からも逸脱しているのだ。だから事例としてはとても興味深い。

 個人的には人類学者的な視点での観察するほうの興味が勝ってしまう。そして振る舞いのパターンから推測する。つくっているキャラならよいとして、これが地だとするとこれからもこのメタ・コンプリメンタリーの関係がエスカレーションすると周りと様々なお騒がせを起こすのだろうなぁと・・・・おそらくこの人が周囲とうまくやっていくには、心理療法家のミルトン・エリクソンのような有能なコーチが必要なのだろう・・・・

・・・・・・・・・・

 クライントとコンサルタントの関係はどうあるべきか?

 偶にそんなことを考える。クライアントとミルトン・エリクソンの関係性が参考になるようにも思う。

 エリクソンは壮年期以降非常に有名になった。が、文献を読み込むと、クライアントに対して決して教祖様のように振舞っているわけではないことが分かる。端的に言えば、エリクソンは山登りする時のシェルパのようでもあり、ヘッセの小説「東方巡礼」で隊を目的に導いた召使のレーオのようでもある。主人と執事の関係だ。もちろん、クライアントが主人でエリクソンが執事だ。

 どちらかというとエリクソンから見てメタ・コンプリメンタリーというよりも、クライアントから見たメタ・コンプリメンタリーな関係をつくっている場面もある。もちろん、それが全てではないが。その意味、周りは教祖のように持ち上げているところもあるが、クライアントとエリクソンの関係は違うということが分かると非常に面白いところだ。

 クライアントとコンサルタントの関係にも色々あるだろう。コンサルタントが<鬼軍曹><芸者><太鼓持ち><学者>・・・・スタイルは様々だ。

 が、クライアントとコンサルタント、クライアントとコーチも、時にはエリクソンのような方向に関係を動かすことが必要だろう。少しへりくだる、あるいは間接的に示唆するのでクライアントが気づくということもあるだろう。

・・・・・・・・・・・・

 新幹線が最寄り駅に近づく。社内アナウンスが流れる。

 下車の準備をする。窓を流れる雨粒はもう消えている。

 駅に停車、列車から出る。

 階段を降り、改札を出て、クライント先へ向かう・・・・・雨は上がっている・・・・


(つづく)

 文献
[1]http://micheleritterman.com/Ten%20Points%20Ericksonian.pdf
[2]http://www.imprint.co.uk/books/Bateson_Intro.pdf
[3]https://books.google.co.jp/books?id=QRqsAgAAQBAJ&pg=PA76&lpg=PA76&dq=meta+complementary+relationship+meta+symmetry

記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月7日月曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その6)

                 

 観察は、こころのお喋りをとめて

 マインドフルネスに行わなければならない、

 過去のことも、未来のことも一旦は忘れて。


 <ひとりごと>



どの場面でも使える魔法の方程式はない

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


 理論を実情に当てはめてはならない。

 徹底的にその場の人の振る舞いを観察せよ。これだけが、その状況に応じた、解決を方向付けるユニークな介入へと導く。



 某日某所の昼時、高層ビルに囲まれた庭園で休む。池の中には鯉が泳いでいる。穏やかな非日常の光景だ。数分足を止める。鯉たちを観察してみる。



 鯉は鯉だ。これ以外に何がある。と、ひとりつぶやく。

 観察を続ける。突然、水中にいる「種」に「個」が浮かび上がる。

 観察している対象は、世界に一匹だけの何かだ。

 太っているのがいる。ひげに癖のあるのがいる。ヒレの先だけ白いのがいる。痩せっぽちのがいる。全身金色がいる。白に赤い独特の斑のがいる。泳ぎ方もそれぞれ違う、と観察から様々な「個」が、その属性から浮かび上がってくる。

 名前をつけることまではしない。が、意識に何かが浮かび上がってくるのは確かだ。名前をつけることもできる。しかし、それは、実在とは違う記号だ。しかも、観察者側の都合だ。コトバは、一般意味論のコージブスキーが言った「地図は領土ではない」の地図でしかない。[2]

 観察を続ける。すると、鯉だと思っていた一匹が草魚だと分かる。細長い、ヒゲがない。これは別の「種」だ。だが、そこに実存しているのは、世界に一つの何かだ。油断すると、人は記号化されたグループが「個」だと勘違いする。バートランド・ラッセルなら論理階梯(クラスとメンバー)の混同というだろう。ITエンジニアならクラスとインスタンスの混同だ。これがよい例だ。そこにある何かを「草魚」と見る。十把一絡は便利だ。概念はこうしないと話すことができない。言葉の本質が「抽象化」だからだ。

  世の中にはどんなことにも使える魔法の方程式がある。この方程式を手に入れれば素晴らしい成功が得られる。

  これは、思い込みに思えてくる。書店に「MBAフレームワーク」のような書籍が並んでいる。思い込みの信者が大量に居る証拠だ。が、頭ごなしに否定するわけではない。問題が一般解として解ける場合、フレームワークは有効だ。教養として身につけておいても損はない。ただし、同じようなフレームワークを同じように使っていれば当然、その人はコモディティ化して顔の見えない十把一絡げ人材となる。それに一般解として解ける状況は限られている。

 幸いなことに、世の中はそう単純でもない。特殊解の登場だ。この場合、定数と変数を区別しないと解けない。この場合は、工夫が必要だ。そのフレームワークがどのような事例をどのようなプロセス、あるいは前提で帰納しながらつくられたのか?これが分からないと適用できないからだ。要は作成者の思考プロセスを知る必要がある。よいフレームワークは大凡プロセスとして提供されている。ただし、だいたいこういうフレームワークは直線的な因果関係でつくられている。それには注意が必要だ。過去を直線的に伸ばしたものが未来になるという結論になる。

 更に世の中は面白い、特異解の登場だ。過去の経験による枠組みでは理解できない。フレームワークを適用しようとしてもお手上げの状態だ。無理に適用しようとするとバカに見えてくる。

 この場合、やれることは現場で現実を観察するしかない。しかも、フレームワークは一旦保留して。記号の無い世界へ行く必要がある。小説家の城山三郎は、本田宗一郎へのインタビューを以下のように書いている。

「マシンを見ていると、いろいろなことがわかります。あのカーブを切るには、ああやれば、こうやればと・・・・。そして次のマシンのことを考える。こう考えていれば、もっととばしてくれる、などと。次の制作過程へ自然に入っていっているんです。」

 このレベルになると、問題解決と創造が表裏一体となる。区別する意味もない。で、最初にすることは、現場に足を運び、そしてまずはひたすら観察することだ。そして、洞察を深める。心理療法家のミルトン・エリクソンが行っていたことだ。何をすればよいのかは、都度浮かんでくる。問題はその微小なシグナルを受け取れるどうかだ。「無知の知」が創発する瞬間でもある。秘密はそれほど多くない。ただし理屈をこねくり回してはいけない。こころの中のお喋りも止める。今風に言うと、マインドフルネス。ただそれだけだ。

・・・・・・・・・
  
  さて、 昼休みが終わる頃、草魚の名前を考えてみた。命名「草ノ介」。ベタで古風な名前だ。オスかメスかも分からないのに迷惑な話だ。たしかに、観察者からすれば、「草魚」から一意な「個」となったのは確かなことだ。「草魚」ではなく「草ノ介」だ。しかし、この名前はボツにした。正確に言うと、名前をつける行為自体をボツにした。実在より名前を意識してしまうからだ。「個」を意識する前にある何かを観察するためだ。「個」が意識に登ったために無視されている部分がある。意識すると意識できる対象はたったの7±2になる。[3]だから、名前をつけるのはずっと後でよい。必要ならば。その前に自分が環境と一体になるくらいに観察することが最も重要なのだと。

 他愛もないことを考えた昼下がり。時間は過ぎていった。


(つづく)

 文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月6日日曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その5)

                     

 この世の中に唯一変えられることがあるとすれば、

 それは、自分から見た<関係性>だけのように思えてくる。

 いわゆる<つきあい方>だ。対象は、いろいろある。

 これは、人類学者のベイトソンがいった<結ばれあうパターン>

 でもあるし、心理療法家のミルトン・エリクソンがクライアントに

 気づかせたものでもあるのだろう・・・・

 <ひとりごと>



変えられないことがあることを知る

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]



 変えられないことのあることを知る。



 隅田川の川辺を散歩する。土手に植えられたソメイヨシノの葉が真っ赤に色づき、落葉の季節を迎えている。季節の移り変わりは「変化」であり、「変化」はどこにでもある。人為的に起こったものでもない。単に「変化」に気づいただけだ。



 「変化」は起こるものであって、起こすものではない、ようにも思える。

 その証拠に人為的に「変化」を起こそうと画策・実行する。結果、思わぬ抵抗にあい、その目論見は無残にも失敗する。人為的な「変化」の企てはろくなことにならないように思えてくる。経営者、組織開発コンサルタント、あるいはプロジェクト・マネージャなら実感していることだろう。
  
  人、あるいは組織の考えや行動を変える。これは難しい。いや、ほとんど不可能に近いと言ってもよい。もちろん、ここで言っているのは、人為的に半ば強制的に変える、という意味だ。

 人や組織の考えや行動は、普通サイバネティクスのネガティブ・フィードバック・ループの元に<維持>されている。[2] これは、外乱があっても元の状態に戻ろうとする力と考えられる。簡単に言うと、現状維持をよしとする認識・行動のやり方だ。組織を維持するには、無くてはならない。ただし、行き過ぎると過去うまく行ったことと同じことだけをやっていればよいという硬直化につながる。

 人や組織の認識や行動は固定化する。ある状況ではよくても、ある状況では役に立たないということが起こる。加えて、状況に応じてうまく変えられないということも起こる。実は、大きな災害、金融危機よりも、ほんの少しの環境の変化が認識できないことのほうが、より深刻だ。ここで必要なことは環境に合わせた「変化」だ。しかし、大抵の人や組織にとってこれは非常に難しいこととなる。理由は、ネガティブ・フィードバックで維持されているからだ。結果、「変化」に適応できず、組織は衰退を始める。

 人や組織の考えや行動の「変化」は、(明示的もしくは暗黙的な)目的に対する、ポジティブ・フィードバック・ループの元での<変化>となる。これ以外はない。もちろん、これは目的に対する偏差を拡大する方向であり、先ほど述べたネガティブ・フィードバック・ループが偏差を縮小するのとは正反対の方向となる。ポジティブ・フィードバック・ループが同じレベルで無理ヤリ活用されれば、対立が起こり先ほどのネガティブ・フィードバック・ループの<抵抗>を引き起こす。

 誤解を恐れずに言えば、江戸時代、藩政改革をやり遂げた上杉鷹山が炭火の中にある<改革の火種>を絶やすな、といったのは、このポジティブ・フィードバック・ループのことだ。火種は大切に成長させないと、ネガティブ・フィードバック・ループの力によってかき消される。

 火種を消す力は組織の至るところにあふれている。[3]

 例えば、変化など必要ない、必要性がわからない。そもそも、そんな変化では今の問題が解決できない。変化の方向性に合意できない。変化の結果、望む結果を生まない。変化の結果、副作用がある。変化のやり方に問題がある。変化するのが心理的に怖い、と様々だ。

 人為的に動的プロセスとして「変化」させようとすればするほど、動的プロセスとしての<抵抗>はますます強くなる。同じレベルでの対立構造と見ているからだ。歯車が咬み合ってお互い反対方向に回ろうとしている状態になる。結果、<変化>と<抵抗>のシンメトリーな関係はエスカレーションして歯車同士は膠着する。ほとんどの場合、<変化>が負け、<変化>の歯車ははじき出される、あるいは壊れる。結果、組織と現状の認識・行動は維持されるが、その組織は外的環境の変化に適応できずに、衰退を始める。これは、どこにでもある話で、身の回りにいくつも転がっている。
 
   反対に、<変化>に成功するのは、<変化>と<抵抗>のシンメトリーな同レベルでの対立関係性を変化させることができた時だけだ。

 もっというと、<変化>と<抵抗>をコンプリメンタリーな関係つまり、相補関係とすることだ。つまり、<変化>に対する<抵抗>から、<変化>を促す<抵抗>へと変えることである。ヨットは風上に向かって走ることができる。心理療法家のミルトン・エリクソンが得意としたのはこの技法だ。<変化>のために<抵抗>を<利用>した。ただし、クライアントに無理強いしたのではなく、あくまでもクライアントが気づく形式で支援だけを行った。ここは、非常に重要な点だ。

   しかし、これでは、まだまだ不十分だ。理由はこれだとたいした変化は起こらないからだ。ウオツラウイックたちが、アシュビーを援用して述べた第一次変化(First-Order Change)と言ったレベルになる。[4] 同じ枠組みの下で多少の改良を加えたレベルでの変化だ。

 大きな変化はどのように起こせるのか?第二次変化(Second-Order Change)と呼ばれる、<変化>が<変化>する変化だ。

   結論から言うと、<変化>と<抵抗>のメタ・コンプリメンタリーな関係が必要だということになる。これは、あるレベル、例えば行動レベルでは<変化><抵抗>は、シンメトリーな対立構造だが、最終的に目指すところは相補関係になり、利害が一致しているような関係だ。[5]  TOCの対立解消図に類似しているのも興味深いところだろう。エリクソンならこれを<変化>しても<抵抗>しても、どちらもよいものが得られる。といった治療的ダブルバインド仕立てで使うだろう。このようなフォーマットで関係性を変化させることで、既存の枠組みを超えた変化が得られることになる。この時が本当に<抵抗>を<利用>して<変化>した時となる。もちろん、無理強いはいけない。ファシリテーションはあるかもしれないが、主体が自主的に行う話だ。

 これが、人や組織の認識や行動<変化>のメカニズムだ。
 
 余談だが、ミルトン・エリクソンは、クライアントとのどのような関係性を築いていたのか?という疑問が浮かぶが、これを書くのは別の機会に譲りたい。

 さて、隅田川の水上にも、オナガガモがやってきた。水上から風がやってくる。これからもっと寒い冬がやってくる予兆だ。風がだんだんつよくなり、ソメイヨシノの葉を散らしていく。しかし、少し先のことを考えると、満開の桜を咲かせる準備のように思える。「変化」はそこにある。変化を実感するには、ただそこにある関係性に気づくことだけ、なのかもしれない。

 散歩をしながらそんなことを考えた。
 

(つづく)

 文献
記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月3日木曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その4)

                       

 痛みは、問題解決において

 必ずしも悪いわけではない

 むしろ、これを活用する必要がある、と

 痛みは、既存の枠組みを超えて変化を促して結果を得るリソースにも成り得る


 <ひとりごと>



痛を自分の師とせよ

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]



痛みを自分の師とせよ。痛みだけが自分の師であり続ける。



    これは、エリクソンのプロセスというより、プロセスが技法がどのように出来たのか?という、それより手前の話だ。また、痛みがある限りそれをカイゼンし続けることができるということでもある。余談だがここで使っているカイゼンは、トヨタ生産方式産みの親の大野耐一氏の言う、金をかけずに知恵を絞るカイゼンという意味で使っている。

  ミルトン・エリクソンは生涯2度の小児麻痺の発作に襲われ、いつも体のどこかに痛みを抱えていたと言われている。施療にトランス状態を活用したのも、リンキング、スプリッティングなどの様々な技法が生まれたのも、筆舌に尽くしがたい避けることの出来ない自分の痛みを緩和する差し迫った必要性があったからだ。

 その意味では、エリクソンの様々な技法は、痛みを母とし、師として生まれた。

 もちろん、心理療法ならば、その技法について、二重盲検やメタ分析などの手法で優位性を確かめなければならない。自分に有効、だから即同様の他人にも有効だ、という無邪気な考え方には同意してはならない。仮説ー適用ー検証を繰り返すことで、どのタイミンで、どの状況で技法を適用すればよいかの理解が限りなく高まるからだ。要は、個々のクライアントの振る舞いを環境を含むシステム全体を含めよく観察する力を磨き続けろ、ということでもある。

 しかし、日常生活や仕事の場面を考えると、この話はメタファーとして示唆深い。

 物理的な痛みではなくても、こころの痛みを母として対処方法を生み出すことができる可能性があるからだ。痛みは可能性を閉ざすのではなく、痛みから何かを学び、可能性を広げる方向で活用するべきだ、というエリクソンからの贈り物とも取れる。痛いから気づける、痛いから学べる、痛いから可能性が見つかる、痛いから実行の背中を押してくれる、という具合に痛みは利用するものなのだ、と。
 

痛みを利用する、既存の枠組みを超えるために
   
 激しい「痛み」は苦痛である。当たり前だ。「痛み」は、局所的に自分の注意を惹きつけ、思考や行動に制約をかける。しかし、痛みが100%悪いだけか?と言われると、そうではないだろう。

 逆説的に、激しい「痛み」は、五感が研ぎ澄まされて「痛み」に集中した状態だ。「痛み」が気になるとそれ以外のことは気にならなくなる。痛みがない状態ではこれほど集中出来ないだろう。

 また、局所的な目的が明確になる。一刻もはやくその痛みを緩和する、あるいはそれからぬけ出すことが何より優先されるからだ。つまりは、「痛み」を感じなくなって、もと通りに思考や行動ができる、という明確なゴールが浮き上がる。但し、単に「痛み」のない状態に戻るのが本当にゴールか?と言われると疑問は残る。その理由は、「痛み」を単なる<現象>と見ると、それよりもっと大きなループとしてある何かを見るようにしたいからだ。喉元過ぎれば、何とやらではないが、単に「痛み」がなくなるだけでは、何も学んだことにはならないのだろうから。

 不幸にして感じる「痛み」であるが、幸か不幸か、普段とは違う意識になっていることは確かだ。誤解を恐れずに言えば、「痛み」を感じることで、意識や行動に「変化」が起こることは確かだ。普通は「変化」をすることが「痛み」と感じて抵抗を示すものだが、「痛み」があるから「変化」へのステップへ容易に足を踏み入れることができるというのも、少し不謹慎だが興味深い気づきだ。
  
  エリクソンの痛みへの対処は学ぶことが多い。

 エリクソンは、自身の「痛み」を緩和するだけに留まらず、なぜ、創発的にいろいろな問題解決の技法が生まれたのか?というのは面白いところだ。

 エリクソンの痛みは身体的な痛みであり、逃げることは出来ない。また、その影響が中長期に渡っている。その意味、何かをしても、何もしなくても、痛みを感じる統合失調症的なベイトソニアンの提唱したダブルバインドの状態にある。

 当然ながら、その痛みを緩和するなり、感じなくする、というのが差し迫った当面のゴールだ。しかし、そのダブルバインドを超えることは並大抵のことではない。

 逆に言えば、ダブルバインドを超えるその技法は、必然的に非常識ならざるを得ない。統合失調症的ベイトソニアンのダブル・バインドに治療的エリクソニアン・ダブルバインドをぶつける。そうして、ダブルバインドを超えた解決策を導く。だから、エリクソンの技法は必然的にアンコモン(Uncommon)な技法となる。

 クライアントに試す前に、自分自身で何度も何度も技法を試す。特に、「痛み」が緩和されることを再優先に。自分を実験台にして、それなりの結果を得る、その後、それをクライアントに適用する。効果がなければ、このカイゼンを繰り返す。こういうやり方になる。また、技法をエリクソン自身に適用している時点で、痛みが緩和されて集中した心身状態になっているのは確かだろう。


 さて、エリクソンとは違うが、日常生活や仕事の場面でも痛みはあるだろう。物理的な痛みというよりは論理的なこころの痛みになるだろうが。この場合、逃げずに対処してみるのが良いように思う。ただし、命の危険がない場合に限るが。

 痛みを伴う困難な問題の最難関は大体ダブルバインドの形式だ。<あちら>を立てれば<こちら>が立たず、そこからは逃げられない。夏目漱石は「草枕」で言っている「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と。

 これを解決するには現在の枠組みでは難しい。枠組みの外に出て既存の解決策とは違う非常識な解決策である必要がある。何れにしても、一番重要なことは、まずこれらを自分の「痛み」として受け止めてみるということだろう。「痛み」がなければ始まらない。これは大きなチャレンジだが、解決できれば得るものが多い。既存の延長を超えて解決なければいけないのは逆にチャンスだ、と考えまずは「痛み」を受け止めることから始めよう。まずは、そこからだ。

 集団でも同じだ、個人的はなくても、会社となればさらにいろいろな痛みがあるだろう。例えば、サプライチェーンの問題、人事の問題、営業の方法・・・あげればきりがない。これも最難関の問題は大体ダブルバインドの形式を取る。既存の枠組みでの解決は難しい。ここでも、まず「痛み」を感じて、それを受け止めてみることである。いずれにせよ、自分たちの痛みを伴う困難な課題を痛みを師として取り組んでみる。それが難しければ難しいほど、解決できた時に得るものは多いだろう。

    さて、よく出来た方法論は、ダブルバインド、ジレンマ、葛藤、対立を<利用>する形式の方法論だ。エリクソニアン・アプローチに限らず、弁証法、TRIZ、TOC ・・・・からハーバード交渉術に至るまで・・・ただし、これらを頭の記号操作だけで使ってはいけないように思う。まずは、「痛み」を感じ、それを受け止めてみることからである。

 「痛み」を師として、いろいろ感じてみると良いだろう。

 「痛み」は、「変化」や「解決」への入り口であることは間違いない。

 
(つづく)

 文献


記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken

2015年12月2日水曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その3)

                          

 人を操る・・・・・エリクソン催眠!!


 これじゃ、人と人との相互作用から創発的に何か新しいことが生まれないよねぇ(笑)。ちゃんと対話しないと。

 そもそも、クライントが自律的に何かできるようにエンパワーするのがエリクソニアン・アプローチだから(笑)。方向が真逆。

 <ひとりごと>




クライアントをエンパワーする技法

 心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由はわけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。
   
 で、今日のお題は以下、[1]


エリクソニアン・アプローチ

セラピストは、変化が起こり得る環境をつくることだけの支援をする。ここで変化を起こすのはクライアント自身である。



  昔、勤めていた会社が、こんな社是を掲げていた。人は誰でもよい仕事をしたいと思っており、良い環境さえ与えられれば誰でも良い仕事をするものだ、と。

 この前提にあるのは性善説。マネージメントの仕事は、部下が働き易いように環境を整えること。つまりは、ねらいは、自律性が発揮できる人や場を創りだすこと。で、エリクソニアン・アプローチとも共通することだ。
 

クライントとの同意は必須

    あるクライアントのプロジェクト。コントラクターの変なおじさんがいた。

 どこが変か?

 クライアントの要件をちゃんと確認しない、ファクトを取らない。クライアントにちゃんと提案しない、独断で何かを始める、と、こんな具合。最悪なのは、元経営者で、自分の想いだけはやたら強いこと。顧客の理想より自分の理想を追求してしまう。悪気はないのだが。

 要は、コンサルティングのお作法、特に立場と役割をよく理解していないというオチだ。自分のやりたいことではなく、クライアントのやりたいことを支援しなければならない。自分のやりたいことは、クライアントのやりたいこととして提案して、同意の元に実行するということだ。

 余談だが、コンサルティングのプロセスの一例は以下、



 1)クライアントの要件、要望を聞く
 2)クライアントへ打ち手を提案する、仮説ー検証ベースで
 3)クライアントの承認をもらう
 4)クライアントの実行を支援する、経過をマネジメントする
 5)クライアントと結果を評価する


 
 当たり前だが、要所でクライントの同意を得て進める。クライアントの実行を支援する。もちろん、最後に期待以上の結果を出す。

 エリクソニアン・アプローチも全く同じだと思っている。

 要所要所で、クライアントの同意を得て進める。最後はクライアントの期待以上、できれば、次元が違う結果を出す。

 ポイントは、クライアントの同意の元に進めるということだ。


 余談だが、私は、心理学大学院出身ではないので、エリクソニアン・アプローチのコーチング利用に限るのだが。

エリクソニアン・アプローチの誤解

で、エリクソニアン・アプローチは誤用されているところも多い。説明を少々。
 

 カーネギーの本に「人を動かす」という本がある。

 元の英語のタイトルは「How to win friends and influence people」。直訳は、「友だちをつくって人に影響を及ぼす方法」だ。確かに、信頼できる友達になって、アドバイスをする。相手は何かやってくれる、かもしれない。何もしなくても相手への影響はある。ウオツラウィックの試案的公理の一つが「コミュニケーションしないでいることはできない」と教えていることだ。[2]

 ただ、相手の行動は、あなたのコントロール外にある。動くかどうかは相手が決めることだ。

 その意味で、「人を動かす」というのは少々大げさだ。

 ただ、この影響なのか、ネットには次のようなコピーが溢れている。「人を動かす、エリクソン催眠」

 酷いのになると「人を操る」「悪用厳禁」だ(笑)。

 これはマヌケだ。頭痛が痛い。

 なぜ、マヌケか?

 エリクソンのアプローチは別名コラボレーティブ・アプローチとも言われる。

http://ori-japan.blogspot.jp/2012/09/blog-post_22.html

 要は、ダンスのように相手との相互作用によってアイディアが創発的に生まれることが期待されているアプローチだ。二人でも<三人寄れば文殊の知恵>。ブレインストーミングを考えるとイメージが湧くだろう。もし、一方が一方を操るということになると、相手はあなた以上のことはできないショボいアプローチだということになる。こういうのは正直御免被りたい。

 上司が部下を操る。セラピストがクライアントを操る。マネキン人形とダンスしているような非創発的なアプローチだ。部下やクライアントは自律性を発揮できない。結果、たいしたものが生まれない。だからマヌケだ。

   世界征服を狙う悪の組織を想像して欲しい。この場合も、現場の下っ端は、トップに操られているとしよう。下っ端は、まさにトップの操り人形であり、現場での創意工夫のへったくれもない。これでは、創造的に悪の理念を広げることも、正義の味方を倒すこともままならない(笑)。

 余談だが、逆も真なり。

 ブラック企業で、上司がまともな場合だ。この上司の部下だけ吹き溜まりで少しはマシになる。しかし、結局は、人事制度や企業文化を変えなければ効果は限定的だ。自律文化のない場ではコーチングが機能しない理由の多くはこれだ。


 話を戻そう、まず、エリクソニアン・アプローチは「人を動かす」ことでもなければ、「人を操る」ことでもないことを知るべきだ。



まとめ

 もう一度、今日のお題を読んでみよう、
  

エリクソニアン・アプローチ

セラピストは、変化が起こり得る環境をつくることだけの支援をする。ここで変化を起こすのはクライアント自身である。



 本質の一つは、コラボレーティブ・アプローチだ。

 そして、もう一つは、クライアントのエンパワーメントだ。

 それを、節度を持って支援する。コンサルタントと同じだ。

 エリクソン財団のガイドラインを読むとよく分かる。

http://ori-japan.blogspot.jp/2014/08/h.html

(つづく)

 文献
[2]https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Watzlawick

記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/okirakusoken